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■ 差別意識のない差別
人権という視点について、私なりにいろいろ考えることがある。 私の妹が、脳性マヒの障害者ということもあり、そういった問題は本当に子供の頃から身近にあった。
私が中学2年生、妹が中学1年生の時のこと。 ある日、私は生活指導の先生に呼び出された。 先生の体罰は当たり前の大変厳しい学校だったので、『えっ…私、何かしたかな!?』とドキドキしながら職員室に行くと…
『K(旧姓)、おまえの妹、障害持ってるやろ? それでな、朝の朝礼でな、みんなに話したいことがあるんやけどな。 おまえの妹、足が悪いのに、プールも休まず、いつも頑張って泳いでるやろ? 先生、それに感動してな〜それで、みんなに言いたいことがあるんや。 朝礼でみんなの前で話してもええか?』
『ああ…いいですよ。 妹もスイミングを習ってたんで、泳げるんですけどね』
『一応、姉である、おまえの許可をもらっとこかな〜と思ったんや、ありがとう』
(妹本人じゃなく、なんで私に許可取るねん) と疑問に思いながらも、まぁ〜好意的に妹を見てくれてると思って、私は少し嬉しい気持ちになった。
そして全校集会(朝礼)の日…
『今日はみんなに話したいことがある。 みんなも知ってるように、2年○組のKの妹は足が悪くて、障害があるわな。 そやけど、いつもプールも嫌がらず休まず、出席してるわな。 おまえらみたいに、着替えんのが面倒じゃ、泳ぐのが嫌いじゃ言うて、ズル休みなんかしてないな。 溺れながらも、いつも一生懸命泳いでる。 溺れながらも、最後まで諦めず泳いでるわな。 それ見て、おまえらは、何とも思わんのかー! 恥ずかしいと思わんのかー! 障害を持ってるKでさえ、溺れながらも、ちゃんと泳いでるのに、健康なおまえらは何やねん! 少しは、あいつを見習えー!』
ここまで読んでくれた人は、どう思われるだろう? さぁ〜間違い探しです!じゃないけど、これって、何?これが指導? おいおいおい、止めてくれよ〜って感じだった。 妹が、どう感じたかが気がかりだった。
まず、なぜ先生は、妹にではなく私に話を持ってきて、私の妹という紹介の仕方をするのか? 妹は足が悪いだけで、知的障害はなかった。 勉強も普通にできて、養護学級にも入っていなかった。 なぜ、妹本人に許可を取らないのか?
それと、(溺れながら)をやたらと強調して話していた。 本当に溺れてると思うなら、感心してんと助けなあかんやろーとも思った。 妹と私は、小学生の頃、3年スイミングに通っていた。 妹にしたら、溺れてるつもりはない。 先生の目から見たら、溺れてると見えたのかしれないけど…(これこそ偏見)
私は家に帰ってから、妹に冗談ぽく言った。 『溺れながらも…やって? お・ぼ・れ・な・が・ら・も…やって? あんた、溺れてたんや〜私、全然知らんかったわ〜 ちゃんと泳いでると思ってたわ〜』
『ほんま、参るわー! 溺れてへんのに、溺れてる溺れてるって… あれでも、ちゃんと泳いでるつもりやのに… ほんま、みんなの前で恥ずかしいわ〜』
『ほんまやな〜 あの先生は全然わかってないな〜 溺れてるんやったら、助けなあかんやんな〜 今度、先生に会ったら言うたりー あれでも、私はちゃんと泳いでますって!』
こうは言いながらも、私も妹も、笑いながら話していた。 私と妹が姉妹という関係で、信頼関係があってこそ、語れる内容の話 だ。
人権人権って、言うは易し、本当はものすごく難しい… だけど、ほんとのほんとは、当たり前の人間感覚、人を人と当たり前に見ることでいいのであって、難しく考える必要はないんだけどね〜 『差別をなくそう』と声高に叫んでる人ほど、差別意識が強いんじゃないかと、私は思ってしまう。
健常者、障害者という言葉分けは嫌いだが、どちらにもお互いに対して偏見があると感じてしまうことがある。 健常者側だけじゃなく、障害者の方にも、健常者に対して偏見、壁がある場合があって、その辺が難しいなと感じる。
2004年10月02日(土)
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