Comes Tomorrow
ナウシカ



 差別意識のない差別

人権という視点について、私なりにいろいろ考えることがある。
私の妹が、脳性マヒの障害者ということもあり、そういった問題は本当に子供の頃から身近にあった。

私が中学2年生、妹が中学1年生の時のこと。
ある日、私は生活指導の先生に呼び出された。
先生の体罰は当たり前の大変厳しい学校だったので、『えっ…私、何かしたかな!?』とドキドキしながら職員室に行くと…

『K(旧姓)、おまえの妹、障害持ってるやろ?
それでな、朝の朝礼でな、みんなに話したいことがあるんやけどな。
おまえの妹、足が悪いのに、プールも休まず、いつも頑張って泳いでるやろ?
先生、それに感動してな〜それで、みんなに言いたいことがあるんや。
朝礼でみんなの前で話してもええか?』

『ああ…いいですよ。
妹もスイミングを習ってたんで、泳げるんですけどね』

『一応、姉である、おまえの許可をもらっとこかな〜と思ったんや、ありがとう』

(妹本人じゃなく、なんで私に許可取るねん)
と疑問に思いながらも、まぁ〜好意的に妹を見てくれてると思って、私は少し嬉しい気持ちになった。

そして全校集会(朝礼)の日…

『今日はみんなに話したいことがある。
みんなも知ってるように、2年○組のKの妹は足が悪くて、障害があるわな。
そやけど、いつもプールも嫌がらず休まず、出席してるわな。
おまえらみたいに、着替えんのが面倒じゃ、泳ぐのが嫌いじゃ言うて、ズル休みなんかしてないな。
溺れながらも、いつも一生懸命泳いでる。
溺れながらも、最後まで諦めず泳いでるわな。
それ見て、おまえらは、何とも思わんのかー!
恥ずかしいと思わんのかー!
障害を持ってるKでさえ、溺れながらも、ちゃんと泳いでるのに、健康なおまえらは何やねん!
少しは、あいつを見習えー!』

ここまで読んでくれた人は、どう思われるだろう?
さぁ〜間違い探しです!じゃないけど、これって、何?これが指導?
おいおいおい、止めてくれよ〜って感じだった。
妹が、どう感じたかが気がかりだった。

まず、なぜ先生は、妹にではなく私に話を持ってきて、私の妹という紹介の仕方をするのか?
妹は足が悪いだけで、知的障害はなかった。
勉強も普通にできて、養護学級にも入っていなかった。
なぜ、妹本人に許可を取らないのか?

それと、(溺れながら)をやたらと強調して話していた。
本当に溺れてると思うなら、感心してんと助けなあかんやろーとも思った。
妹と私は、小学生の頃、3年スイミングに通っていた。
妹にしたら、溺れてるつもりはない。
先生の目から見たら、溺れてると見えたのかしれないけど…(これこそ偏見)

私は家に帰ってから、妹に冗談ぽく言った。
『溺れながらも…やって?
お・ぼ・れ・な・が・ら・も…やって?
あんた、溺れてたんや〜私、全然知らんかったわ〜
ちゃんと泳いでると思ってたわ〜』

『ほんま、参るわー!
溺れてへんのに、溺れてる溺れてるって…
あれでも、ちゃんと泳いでるつもりやのに…
ほんま、みんなの前で恥ずかしいわ〜』

『ほんまやな〜
あの先生は全然わかってないな〜
溺れてるんやったら、助けなあかんやんな〜
今度、先生に会ったら言うたりー
あれでも、私はちゃんと泳いでますって!』

こうは言いながらも、私も妹も、笑いながら話していた。
私と妹が姉妹という関係で、信頼関係があってこそ、語れる内容の話
だ。

人権人権って、言うは易し、本当はものすごく難しい…
だけど、ほんとのほんとは、当たり前の人間感覚、人を人と当たり前に見ることでいいのであって、難しく考える必要はないんだけどね〜
『差別をなくそう』と声高に叫んでる人ほど、差別意識が強いんじゃないかと、私は思ってしまう。

健常者、障害者という言葉分けは嫌いだが、どちらにもお互いに対して偏見があると感じてしまうことがある。
健常者側だけじゃなく、障害者の方にも、健常者に対して偏見、壁がある場合があって、その辺が難しいなと感じる。


2004年10月02日(土)
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