正義の戦争?テロリズムの正当性? - 2002年09月08日(日) もうすぐ、また9月11日がやってくる。 この一年で何が変わったのか考えていたんだけれど、結局、何一つ変わってはいないし、みんな危険であることに慣れてしまっただけ。 メディアでは、「欧州でのアンケート結果では、同時多発テロには、アメリカにも責任の一端がある」との回答が過半数を超えていたという。 今、小林よしのり氏の「新・ゴーマニズム宣言11・テロリアンナイト」を読んでいるのだけれど、力がないものの反抗の手段としては、テロリズムしかない、というような考え方も出ているようだ。 しかし、僕はテロリズムを「方法」だと割り切れないのは、テロリズムは「覚悟していない人間」を死に追いやる方法だということだ。 戦争なんてしたくないが、自分の働いているビルに飛行機が突っ込んでくるとか、広場で爆弾が爆発するとか、朝、学校に行っていたらピカドンを落とされるなんていうのは、容易に想像ができる死に方ではないか。 そういう、日常的な戦死は、避けたいものだ。 アメリカのやっていることは正しいことではないかもしれないけれど、坊は、長淵剛のように「正義の戦争なんてありゃしねえ〜」とか知ったようなことを歌いたくはない。 もし、自分の身内がやられたら、たぶん何の関係がなくても空爆でもしてくれないと、やってられん!と思うような気がする。 でも、最近のこういう論調は、「イジメには、イジメられる側にも責任がある」というような腐った考えに支配されているような感もあるのだ。 だいたい、アメリカの中東政策のまずさを批判することとテロを正当化することを結びつけてどうするのだ。 目的の正しさは、必ずしも手段を正当化しないだろうに。 最近、果たしてどっちが正しいのか、わからなくなっている。 僕がアメリカ人なら当然空爆支持だろうし、タリバンなら、テロをやってたかもしれないな、と思う。 ...
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