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「H・R」を観て、毎回残念に思うこと。 - 2002年10月17日(木) 昨日、三谷幸喜脚本の「H・R」第2回を観た。 よく練りこまれていて、面白いのだが、観る方にもある種の集中力を要求する番組ではあるなあ。 この番組を観ていて、残念なことがある。それは、演劇やコンサートを観に行ったことがある方ならわかっていただけると思うのだが、要するに、テレビの視聴者としてこの番組を観ていると、視点が固定されてしまうのだ。 固定されているって、カメラワークもちゃんと計算され尽くしているし、場面も切り替わっているじゃないか?固定カメラじゃないよ!と仰るのは承知の上。 僕が言っている「視点」というのは、脚本家・三谷幸喜の視点、もしくはカメラマン、編集の人にとってのいちばん面白い視点で、僕たちもこの「H・R」を観なければならないということだ。 生の舞台では、観客は、自分の好きなところに視点を置くことが可能だ。 クライマックス、主人公が決め台詞を颯爽と語っているときにも、舞台の隅で手が少しだけピクピクしている死体役を見ることだってできる。 テレビの画面では、いかにも「ココが笑いどころ!」とばかりにアップにされる隅っこのほうでの役者の動きも、観客は自分の眼でそれを発見しなくてはならないし、また、それを自分で発見したような気になるところが、舞台の面白さでもあるのだ。「H・R」の観客の「笑い」が、けっこうバラツキがあって、一斉に大爆笑というシーンが少ないのも、人によって、自分が笑えるポイントを発見できるか?というのと(もちろん、笑えない人だってたくさんいるはず)、発見できたとしても、人によってその「見つける」タイミングが違うということに起因している。だから、ADが舞台の袖でグルングルン手を回しているのとは、明らかに異質の笑い方なのだ。 普通の舞台は、ビデオで観ても何故か面白くないことが多いのは、そういうことなのだろうと僕は思っている。「H・R」は、舞台とテレビの双方に通じた三谷幸喜という人物の舞台劇の手法を取り入れたコメディ番組という挑戦なのだ。 もちろん、劇場で観ている観客にとっては、ひとつの舞台劇でもある。 でも、やっぱり僕はテレビの画面の外の役者さんの動きが、すごく気になって、仕方ないんですよねえ。 ...
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