マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

「心と心の繋がり」を実感できないオトコ。 - 2003年02月25日(火)

 ある編集者の有名な言葉に、こんなものがある。
「エッセイなんてのは、何が書いてあるかが重要なんじゃなくて、誰が書いたかが重要なんだ」
 もちろん、これは極論だ。だが、一面の真実ではある。
 今年の芥川賞候補に高校生・島本理生さんの「リトル・バイ・リトル」が挙がった。
 何年か前、「日蝕」という現役京大生の作品が受賞したときも感じたのだが、やっぱり、読み手というのは、「誰が書いたのか?」という面を無視して、作品の世界に没頭することは難しいのかもしれない。
 高校生なのに凄い!というのは、文藝春秋の営業的な面も考えると、必然的な感慨なのかもしれないけれど。率直なところ、彼らの作品が、現時点でそんなに素晴らしいとは、僕には思えなかったのだ。

 僕だって、他人の日記を読むときには「どんな人が書いているか?」ということは、やはり気になる。姿かたちというより、もっと漠然とした印象みたいなもの。

 子供のころ、社会的地位や職業、容姿で恋愛をすることに、すごく嫌悪感を感じていた。
「そういう、見た目だとかお金だとかを一切省いた、心と心のつながり」が、真の恋愛だと思っていた。医者や弁護士だからといって、寄ってくるような女など、最悪。なんて。
 まあ、当時から誰も寄ってはこなかったけどね。
 そうだな、言ってみれば、目をつぶって、黙って繋いだ手と手の温もり、みたいな恋愛。
 そんなイメージを抱いていた。

 でも、今の僕は薄汚れてしまったから、そんな恋愛の存在は信じられない。
 お見合いの釣書みたいに条件重視なわけではないけれど、顔とか、体とか、職業とか、財産とか、言葉とか…そんなものをすべて失ってしまったら、人間には何が残るだろう?
 自分の置かれた状況を全く無視して、何かを100%客観的事実として考える、ということは、果たして可能なのだろうか?

 心と心だけの繋がりなんてのが、もし存在するとすれば、それはお互いが相手のことを愛しているのではなく、お互いが自己愛に溺れている場合だけではないだろうか?

 結局、人間は「自分を飾るもの」から、逃れることはできない。
 このインターネットの世界では、すべての人に平等なのではないか、と最初はみんな思い込んでいた。
 でも、ネット上でも、やっぱり「自分を飾るもの」から逃れることはできない。
 オンラインゲームのキャラクターのように、この世界だけで通用するアイテムで装備を固めることは可能でも。

 それにしても、「心」というのは、いったい何なのだろうか?
 この年になっても、まだサッパリ解らない。



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