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「人間の盾」と「人間の矛」。 - 2003年03月07日(金) ♪例えば誰かひとりの命とひきかえに世界が救えるとして 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男 (「HERO」 by Mr.Children) 最近、ネットで、イラクで「人間の盾」になろうとしている人たちへのコメントをよく見かける。僕がざっと読んだ印象では、「人間の盾になろうなんて偉い!」というような論調の文章は殆どなく、「イラク政府に利用されるだけの愚行」とか「そんなことをしても何の役にも立たないのに、自意識過剰な連中だ」などという意見が多いような印象がある。 まあ、彼らが「自分たちがいれば、本当にアメリカ軍は攻撃してこない」と思っているなら話は別だが。 たぶん実際は、戦争になれば「周りが止めるのに自分から地雷原に踏み込んでいった人々」に対して、もし彼らが攻撃に巻き込まれて死んだとしても、「まあ好きで死ににいったんだから」というのが、一般的な周囲の人々の反応ではないだろうか。 最近、思うことがある。 自分は、何かに命を賭けるという行為について、それを「悪」だと断じることによって、己の後ろめたさを隠そうとしているのではないか、と。 「仕事やりすぎて、過労死してもいけないし」 「あんまり彼女につきまとうと、ストーカーみたいだし」 「戦争反対!なんて言っても、どうせ戦争になるんだろうし」 『インディペンス・デイ』というアメリカ映画がある。 この映画のクライマックスでは、年寄りのイカレたパイロットが、敵の宇宙母艦に特攻して破壊するシーンがある。 彼は英雄となり、地球は救われる。めでたしめでたし。 しかし、特攻したパイロットの歴史は、そこで終わってしまう。 どんな賞賛が彼の骸に降り注いでも、彼はたぶん、それを感じることはできない。 「死ぬ」というのは、たぶんそういうことだ。 (いやまあ、宗教的に「殉教したら楽園行き」と信じている人々もいるから、一概にそうは言えないだろうけど) 「死」というのは、他人にとっては感情を揺り動かす現象のひとつ」だが、 本人にとっては”The end”なのだ。 「自分が死ぬか、それとも核兵器の発射スイッチのボタンを押すか?」 という選択を迫られた場合、「自分はボタンを押さずに死ぬ」と言い切れるだろうか?僕には自信がない。 「人間の命は、地球より重い」という言葉がある。 でも、多くの人にとっては 「自分の命は、地球より重い」のではないだろうか? 「地球」という存在を意識できるのも、生きているからなのだから。 人間を30年もやっていると、「戦争のない人間社会」というのが、少なくとも僕が生きている間に実現する可能性はないだろう、と断言できる。 それでも、命をかけて「戦争反対」を訴えている人々をそこまで罵るだけの根拠があるとは、僕には思えない。逆に、「そんな、黙ってれば自分には大きな影響がないことに命を賭けられるなんて、すごいなあ」と感じる。 もちろん、命を賭けているから、何をやってもいいというわけではないし、ここでイラクを叩いておくことが、将来起こりうる、より大きな禍の根を絶つ可能性もあるだろうけれど。 それにしても、この「人間の盾」は「ものすごく一方的に勝ちそうな国(アメリカ)とそれに目をつけられた国(イラク)」という力関係だからこそ、成り立つような気がするし、おそらく「人間の盾」が、もっとも国際社会にインパクトを与えるのは、彼らがアメリカ軍の攻撃もしくはイラクの人質として命を落とすという事態になった際だと思うのだが。 要するに、少なくとも他人が命懸けでやっていることを自分の価値基準だけで判断して短絡的にバカにするのは、あまり感心できない、ただそれだけのこと。 だいたい、善意の「人間の盾」以上に、責められるべきものは、この世界に満ち溢れているんじゃないかい? 僕は怖いし、自分にメリットもなさそうだから、「人間の盾」にはなりたくないのだが、もし、全人類が「人間の盾」になれば、戦争なんて起きないのにね。 それこそ、夢物語。 ...
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