「馴れ合えない人々」とインターネット - 2004年04月03日(土) どうしてこんなことを急に書き出そうかと思っていたかというと、そもそもここに書くべきことが最近ほとんどない状況の中で、花見のあとに2時間ほど居眠りしてから起き上がると、女の子たちがチアリーディングをやっているドラマが放映されていて、観るともなしにそれを観ていたら、なにかとてもとても哀しくなってきてしまったのだ。 僕の学生時代というのは全寮制の男子校というやつで、僕はそこで毎日「こんなのイヤだなあ」と思いつつ、イヤになるような成績をとったりとらなかったりして暮らしていた。楽しみといえば寮を抜け出して駄菓子屋で買ってきた菓子やジュースを摂取することと本を読むこと、そして週末の外出くらいのもので、本当にあれは、毎日面白くもなんともなく生活だった。 結局この30過ぎまで、自分にも他人にも誇れるようなものなど何もなく、ただこうして「普通に生きるのもけっこう大変なんだぞ」なんて偉そうに書いていると、なんだかそれはそれで虚しいなあ、なんて思ったりもするのだ。あと10年もすれば、「俺の若いころは…」なんて偉そうに語るイヤミな先輩一人誕生、といった面持ちで。 インターネットは「馴れ合い」というのは、一面の真実には違いない。もともとネットは効率よく情報を集めるためのツールで、それを仲間集めに応用しただけのようなものだし。まあ、友達選びの基準が「アクセス数」とかいうのはどう考えても矛盾極まりないのだが、こういうのは現実世界でもそんなものだから仕方がないか。一面識もない人だけど「ろじっくぱらだいす」の人とかに会う機会があったら、平身低頭してしまいそうだし。 で、コミュニティとしてのネットというのは、どんどん変質しつつあって、例えば「インターネットのメール交換で出会った」なんていうのは今では、あまりに一般的でドラマのネタにもならないし、だいたい、一週間もメール交換すれば「写真見せてよ」なんてやられるのがオチだろう。で、「デジカメないんだよね」なんていうのも通じない、と。 で、結局は自分の容姿と才能に自信がある、アクティブな人々が、ネットを回していくっていうわけさ。 そして、「一般常識がないやつは、ネットの中でも通用しない」というような常識的な世界が構築されていくわけだ。ネットというのは、「馴れ合いやお付き合いが苦手な人々」のセーフネットという面があったにもかかわらず。 僕はこっちのほうで、「疎外感」があるのは当たり前で、そのコミュニティに入りたければ、自分を叱咤して踏みとどまれ、みたいなことを偉そうに書いたけど、自分でもオトナになったなあ、なんて考えてもみるのだ。 実は、僕がこうしてネットに文章を垂れ流しているのは、そういうリアルのコミュニティみたいなものへの「疎外感」を何かで埋めたいと思っていたからのような気がするのに。 ネットというのは「自分の身分や立場に縛られずに、自由に発言できるコミュニティ」のはずだったのだが、そこには権威が生まれ、序列だってできた。新大陸アメリカに渡った人々はイギリスで宗教的に辛い立場にあった者が多かったのだが、彼らが新大陸に渡ると、またその中でさまざまな序列ができあがっていった。アメリカ人が「平等」を旗印にするのは、基本的に彼らが「平等」ではないからだ。それでも「平等でなければならない」というような強迫観念は、賞賛されるべきところも大きいのだが。 自分でも何を書いていいのかわからなくなったのだが、僕はネットを「最後の楽園」にしておきたい、という気持ちが強いのだ。 もっとも、そんな「楽園」なんて最初からどこにもなくて、僕が「そんなものはないことを知らなかった」だけなのかもしれない。 それでも僕はネットが好きだけれど、その「好き」という理由が、当初の「楽園を予感させるもの」から「自分がある程度の権力を持っている場所(そりゃ、微々たるものだけどね)」に変貌してしまっていることをつくづく自覚してみたりもするのだ。 「愛国心」を称える人が、みんな偉い人なのと一緒だね。 僕は三島由紀夫のこと、とくに彼の晩年のことをずっと「バカだなあ」と思っていたのだけど、最近、少しずつ考えが変わってきた。たぶん三島は「文章を書く」という仕事にずっと携っていくうちに、文章の限界をみてしまったのではないか?頭で考えることは、どんなに素晴らしいことでも、所詮フィクションでしかないという矛盾に悩むようになったのではないか?彼は「己の貧弱な肉体に対するコンプレックス」を抱えていたというが、おそらく、あのチアリーダーをやっていた女の子たちのような「肉体の記憶」(なんかいやらしいな…)を持っている人間への、「フィクションとしての記憶しか持たない」というコンプレックスだったのではないか。 三島由紀夫は、自分の肉体で「痛み」を証明したくて、あんなことをやってしまったのかもしれない。まあ、他人からすれば、はた迷惑極まりない話だ。 たぶんね、今のネットのコミュニティというのは、そういう「フィクション」と「ノンフィクション」の間で揺れている。「ネットはひとつの世界である」という認識と「ネットは現実社会のひとつのツールである」という認識と。 ほんとうは、「ネットの中くらい『馴れ合えない人々』にも寛容な空間でもいいんじゃないかなあ」なんて考えてみたりもする。 それでも、バーチャルな関係だけでは飽き足らず、より現実的・肉体的なものへと向かってくのは、必然なのかもしれない。 本来「馴れ合いない人々」である僕が、ちょっとここで偉そうにしているからって、ほかの「馴れ合えない人々」に説教するなんて、ちゃんちゃらおかしいよな。 ...
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