昨日は久しぶりに八犬伝を観た。 あの時代に生きて死にたいと思った。
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昨夜、考えたことの整理、文字化。
死にたいとか、狂いたいとか考えてるけど、 考えてるだけで、何もしていない。 理性がある。邪魔。 考えすぎ。よく言われる。 でも、考えて、自分を責めたりするのは、 なにか、当然の罰のよう。 考えをやめることはできない。 自分を苦しめねばならない。 苦しいことから逃げてはいけない。 罪を背負わねばならない。 禁止。内罰的。自己卑下。自嘲。自己否定。 もっと、酷いことばで傷をつけねばならぬ。 もっと、痛めつけねばならぬ。 このままを受け入れてもらおうなんて思いたくない。 人には愚痴を言うだけ、 人には迷惑かけるだけ、 人には不愉快な思いをさせるだけ、 人には嫌われるだけ。 得意技は人を嫌な気持ちにさせること 人に嫌味を言うこと。 ナチュラルにそれらが行なえてしまうのだ。 わたしの発言は、自然に嫌味だ。なぜ? 人を羨む。人が羨ましい。 自分との比較。劣等感。 抑えてきたもの。 生まれてから、弟ができるまで 愛されていた? 一切の記憶なし。 幼稚園の頃。 お姉さんだね、と言われた。 友達はふつうにいた? でも、やや内向的な子だったような気もする。 よく覚えてない。 先生に怒られたことは覚えてる。 見捨てられたと思った。 それは自分がうまく工作できなかったせい。 あのときのさみしいような、泣き出したいような気持ちと 何を作ろうとしていたのかは覚えている。 他にも、お弁当の匂いとか、いろいろ覚えていることはあるけれど ショックだったのはその出来事くらいだろうか。 ずるい子どもでもあった。ナチュラルに。 小学校。 低学年の頃は誕生日会に友達をたくさん誘えた。 中学年(?)の頃は何してたのかな。 頭がよかったころ?(苦笑 友達の子が転校した気がする。 クラス替えで友達と離れたのかもしれない。 だんだん、友達が少なくなっていった。 学校でひとりでいる時間が苦痛。 高学年。ほんとに友達いなかった。 人との付き合いがだめだった。 よく毎日学校行ってたもんだ。 勉強もしなくなった。 教室に張り出された、ドリルの進み具合をシールを貼って一目瞭然にするという代物では 女子の中でドリルが終わっていないのはわたしだけだった。 それを見るたび、みじめになったけど、 うちに帰ってもドリルはやらなかった。 その張り出しは、自分が劣っていることの提示と同じだった。 みんなにそう見られているだろう、とも思った。 でも、改善しようとしなかったのはなぜだろう。諦め? 自分はよくわからない子だった。 ああ、ひとつ下の近所の子と遊んでたんだ、ずっと。 だから、同学年に友達がいなかったのだ、たぶん。 同学年の子に話しかけるのは勇気がいった。気後れ、か。 それと、中学年のころから高学年にかけては、 いとこと遊びたがっていた。 週末ごとに泊まりに行きたがった。 遊びに行きたがった。 学校の外に付き合いを求めていたのかもしれない。 いつだったか、 いとこの家に遊びに行きたいといったら母に 「友達作りなさい」と言われた。 それはいやだった。 いとことの付き合いのほうが楽だったし わたしの気分をよくさせてくれたいたから。 学校の帰りは毎日、今日はいとこがうちに来ていないかと考え、 うちに帰っては落胆したものだ。 そう、小学校のあるときから わたしは神経質になっていた。 車の排気ガスを吸いたくなかったので 車の近くを通るときは息をしなかった。 息をしないでいると、口の中に唾液がたまった。 道に吐き出すわけにも行かず、そのままだった。苦しかった。 その状態ではまともに喋れなかった。 後で指摘されたことだが 「ようちゃんて、そうなるときよくあったよね」 と言われた。 彼女ら(学校の同学年の子)に わたしはそういう目で見られていたのだ。 だから、わたしに近寄らなかったのかもしれない。 それから、どこでも、歩くときに 歩く歩数を自分で決めていた。 小学校は渡り廊下などにカラーリングがしてあったため、 ここの色のところは何歩で(「何」歩、という数は頭になく、ひたすら感覚で行なっていたのだが) と決めかかって、それに従って歩いていた。 傍目に見たら、きっと ひとりでよたよた歩いたり、ぴょんと跳ねたりして 妙な歩き方にしか見えなかったに違いない。 とにかく、その歩き方をやめることはできなかった。 学校でも、帰り道でも、家の中でも。 大晦日になるたびに、 「来年は、これをやめよう」と思っていた。 でも、やめられなかった。 神経質だった。 小学校の最初の頃は学校にプールがなくて、近くの公園のプールまでみんなで歩いて行って水泳の授業をした。 毎回、うちで体温を測っているときは平気なのに、 学校に行く道で必ずおなかが痛くなって 水泳の授業は毎回休んでいた。 授業が終わるとおなかは痛くなくなっていた。 なぜだろう。 学校の授業でないプールは好きだった。 でも、プールから上がって着替えるときに、 いいようもない恐怖感に全身を包まれるような感覚があった。 怖かった。 うちの簡易ビニールプールで遊んだ後でもそれはあった。 母親はうちにいるのに、 お母さん!と、助けを求めたくなるほどだった。 怖かった。 水から上がった後。 誰しも、そんな感覚に捕らわれたりするのだろうか? 誰にも言ったことがないし、訊いたこともないのでわからない。 低学年のころだったか、幼稚園の頃からだったか アトピーになった。 ひどかった。 今でも手足や体に残る傷跡は、全て自分で刻んだもの。 自分でかさぶたをはがして、血を出して、の繰り返し。 皮膚科では「これは手術で麻酔しないとできないような傷だ」と 言われたこともあった。 かゆかった、のだった気がする。 血を出すのは常となっていた。 でも、最初は違った。 たぶん最初は虫刺されだったのだ。 原因不明の虫刺されで、ひざの辺りが三箇所くらい膨れた。 皮膚科で包帯を巻いてもらって登校した。 担任の先生に注目してもらえると思った。 案の定、「どうしたの?」と言われた。 妙な優越感みたいなものがあった。 特別。 そう、特別になりたかった。 わたしを見て欲しかったのだ。 その前か後かは忘れたが、 足首にも傷ができた。 リンパ液がたくさんでてきて、 靴下の色を変えるほどだった。 それを親に知られるのが怖くてだまっていたけど ばれてしまった。 なぜ、ばれるのが怖かったのだろう。 他にも、体のどこかが痛い時は 親に知られるのが怖かった。 我慢した。 心臓が痛かったときもあった。 このまま蝕まれて死ぬのかと想像もした。 いつだったか、 眠れなくて毎晩泣いていた。 親は近くで寝てくれたが、毎回怒らせてしまっていた。 子どものときに、不眠症、か。 泣き疲れると、いつの間にか眠っていたのだろうか。 親を怒らせるのは面倒かけていると思ったが そばにいて欲しかった気持ちのほうが強かったのかもしれない。
中学校時代。 入学してから半年くらいは友達ができなかった。 また、ひとりの時間が苦痛だった。 移動教室のときもひとり。 それを隠そうともしていた。 周りの目を非常に気にしていた。 あるとき、ひょんなことから友達ができた。 出席番号が近かったから掃除場所が一緒で 何気ない会話をしていると 「ようちゃんておもしろい!」と言われた。 それからはずっと楽しかった。 その友達は、今でも親友だ。 中学時代はおおむねがんばっていた、と思う。 この子にはかなわないな、と思っていた子を 体育の持久走か何かの時間に抜かすことができたのが一因だと思う。 今でもその瞬間のことは覚えている。 その後、自信をつけたのか学級委員にまでなったりして 張り切っていた、と思う。 なかなかに輝かしい時代だった3年間だった。 いやなこともあったけど、充実した時間を過ごせたと思う。
高校時代。 イメージは灰色。校舎のコンクリートの色。 3校が合併して作られた初めての年に入学したから 何もかもが新しかった。人も多かった。 輝かしい中学時代に期待を膨らませて入学したはよいが またクラスで友達ができなかった。できなくなっていた? 出席番号が近い子はギャルっぽくて肌に合わなかったし 授業中寝ていたくせに後でノート見せて、といわれるのが とても嫌だった。でも嫌だとはいえなかった。 中学生の頃からか、毎日新聞を読むようになっていた。 環境保護とか、海外青年協力隊というものにひかれて 英語の授業を多くとっていた。 思考回路ががちがちだった。 「超」ということばを使うのも スカートを短くするのも ルーズソックスを穿くのも ポケベルを使うのも そうしている人たちも 嫌だった。 嫌だった。 楽しめなかった。 友達は部活の子たちばかりで クラスには馴染めなかった。 時間割も、ひとりひとりが自分で作るものなので クラス単位の行動もあまりなく、 クラス全員の名前も顔も覚えられなかった。 友達と同じ授業を選択する、とかいう行為をしようとも思わなかった。 文化祭では、部活の友達もクラスの友達と行動するから わたしはひとりだった。 毎年、ひとりだった気がする。 みじめ。 友達いないのね。 ひとりの方が、気が楽、と思ってもみじめであることに変わりはなかった。 卒業式の日も、入っていたバイトを空けてもらったが 部活の友達はそれぞれクラスの子と遊びに行ってしまい、 当然ながら打ち上げに行くような仲の子もおらず、 バイトにも余裕で行ける時間に帰宅した。 きっと、楽しいこともあったのだ。 部活のときなど。 クラスでも、上っ面だけの付き合いの子もいたのだ。 部活でもクラスでも一緒じゃない子とも たまに喋ったりもしたのだ。 ただ、わたしがそれ以上前に進もうとしなかっただけなのかもしれない。 ずっと下を向いて歩いているようだった気もする。 廊下は暗かった。 5階や6階から見える景色は好きだったが ひとりでそんな景色を見ているのも変だと思われそうな気がした。 自分に自信がなかったのだろう。 親友はクラスも違ったし、楽しそうにやっていた。 わたしの嫌なルーズも化粧もしていた。 わたしはいつも余裕なく、ぎりぎりしていた。 あれも嫌これも嫌。ひとりで歩いていた。 確か、コンプレックスを持っていて ダイエットもしていた。 心がすさむだけだった。 楽しくなかった、高校生活。 何かの歯車から抜け出せずにいた。 いい思い出はない。 あったけど、ない。 高校の頃の自分は思い出すだに見るに耐えない姿をしているので。
大学入学。 当初の目的であった部活に入る。 人恋しさにバイトを始めたりもするが 1・2年は普通、でもないがそれほど嫌な思いもせずに過ごせていた、と思われる。 3年あたりから、暗黒。 悩んで苦しかった。ままならなかった。きっとずっとそんな調子だった。 年明け頃、浮上するも 染み付いた思考回路は途切れることなくわたしを苦しませた。 春頃また再浮上するも、 3週間の不在という環境の中、堕ちた。 一日だけ、ヤケクソで浮上したかに思われたが たった一日しかもたず、今に至る。 年だけくって、精神的にはてんで未熟だ。 「学校」にいたとき、自分を解放せず自分を押し込め、思春期を正しく過ごしてこなかったのだろうか。 学校は、抑圧の場である場合が多かった。ように思う。 高校のときは「真面目」だったのだ。 まったく、羽目をはずせなかった。 そんな自分に縛られた自分を思い出すのも嫌だ。
今。 今は、自分が嫌になっている。 他人との比較で劣っているわたし。 楽しい学生生活を送れてこなかったわたし。 友達がいなかったわたし。 物覚えが悪いわたし。 わがままで愚痴や嫌味しか言えないわたし。 人に迷惑をかけ、不快にさせるわたし。 頭がおかしいとしかいいようのない思考回路を持つわたし。 先には何の希望も期待も見えてこず、 事故か何かで早く死にたいと思う。 夜にひとりでいると そんなことばかり思いだし、考え、嫌になる そして、挙句に自分が可哀想になって涙を流すのだ。阿呆だ。 自分の中でのサイクルが。 外に漏れ出すのはどうしようもない言葉ばかり。 それでも生きようとする体。 腹が減るのはなぜだ。すこしいらつく。 ひとりでいたくないときというのは たいてい夜で、そんなときに一緒にいてくれるひとなどいない。 いっそ、理性など飛ばしてひとりで狂ってしまいたくなる。それは楽だ、きっと。 死んでしないたくなる。ざまあみろ。 被害妄想。悲劇のヒロイン?自意識過剰。性格の問題。身体症状なし。 この程度の苦悩など、誰もが持つものであるから 我慢しなさいとか思われているのだろうか。 結局、他人との比較なのだろうか。 わたしが大げさに苦しんでいるだけなのだろうか。 苦しいということすら、傲慢なのだろうか。 もう、 いやだいやだいやだ。 やだやだ。 駄々をこねているだけ?わがまま?構って欲しいの?救って欲しいの?愛して欲しいの?側にいて欲しいの?自分を認めて欲しいの? 殺して欲しい。
狭い小さい世界に閉じこもり過ぎだとの指摘を受けた。まさにその通り。 自信がないんだねと言われた。その通りです。 結局、自分次第だよね。そう。 もう、どうでもよいことのようにも思われ。 残っているのは、義務。義務。義務。 それすら残して、魔が差したら。いってしまいたい。
自分でどうこうしようとか思わないの 他人に求めているの 助けてもらおうと。 他力本願。 もう、振り返れば、十分に苦しんだ気もするし これからも苦しむべきなのかもしれないと。 でももう、苦しいのは嫌だ。だから死にたい。 結局は自分で改善の方向へ向かって何もしていないのが悪い? 苦しがっているだけ。 甘えているだけ。 こんなに苦しんでいるから、誰か救って。 こんなに苦しいのになぜ身体症状が出ないの。 自分カワイソ。自分がかわいい。だから涙を流すのだろう。 考え出したらきりがないところには蓋をして 避けて、逃げて。 でも、どうにもならないその場しのぎにしかならない。 誰もこっちを見ない、見たくない、見ようとしない。 わたしは、自分を出そうとすると邪魔者でしかない。
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