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2002年11月30日(土) |
tokyo.sora |
『tokyo.sora』という映画を観た。この映画の中の東京の空は常に曇っていた。そして、登場人物たちは淡々と日常を送る。何も奇跡的なことは起こらない。どこまでも広がる透明な青空なんて見えない。
「生きるのが重くなったら、おいしいコーヒーを飲みに行こう」
そんなふうにして僕らは生きていく。そうでない日もたくさんあるけれど、いくつかの日にはそんなふうに。そのような日においしいコーヒーを飲むことができたなら、幸運だ。
2002年11月29日(金) |
常識と非常識のあいだ |
なんというか、何か一つのことに夢中になりすぎると、他の基本的なことがおろそかになることがある。夢中になるというのはそういうことだ、という考えもあるかもしれないが、それでもやはり基本的なことを忘れないように心がけたほうがいい。もっとも、何が「基本」なのか、というのが実は人それぞれだったりするのだけど。でもやはり多くの人々が共有する「基本」は存在し、それが一般に社会常識と呼ばれている。それを学び忘れると、世の中で生きていくのが難しくなる。だからといって常識だけでは、何も成せない。常識を身に付けつつも、「非常識」な部分を持つ、そこに「個性」や「独創性」が生まれるのかもしれない。といっても、非常識が悪い方に作用することも往々にしてあるのだけれど。まあ、結局は自分次第だ。
世界のために、できること。 それを考えろと言う知人がいる。 だが君は、言うだけでなく実際に世界に対して何かを成しただろうか? この先、本当に何かを成すために努力しているか? もっと身近な、隣の誰かのために生きるのだって難しいんだぜ? 君のいう「世界のために」という言葉が、 僕の思うものよりも遥かに軽いのなら別だが。
理想や原則論ばかりを言うのではなく、 もう少しアクチュアルな対処法を考え行動したほうがいい。 僕らはそんな時代に生きている。 いつまでも古典的世界観にしがみついていても仕方がない。 現状から目を逸らすのではなく、それを受け入れた上で、より良い対処法を模索する。 そうしなければ、世界のためできることなど何もないだろう。
『時代が変われば、いろんなことも変わる。でも結局はそれでいいんだよ。みんな入れ替わっていくんだ。文句は言えない。』(村上春樹『羊をめぐる冒険』)
思っていることが言葉足らずで上手く相手に伝わらないことがある。 自分ではわざわざ説明しなくても通じているだろうと思っているのに、 実際には全く通じていないときがある。 後になってそれに気づいて、もう遅いときもある。 別にそれほど問題なく物事が進むときもある。
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色々なことについて、「若い」意見を闘わせ議論する。 何もしないのに、ただ意見だけを述べることができる。 学生の特権の一つかもしれない。 でもいずれ、わかる。 自分が言っていたことは本当の言葉だったのか。現実の重さを持っていたのか。 本当に自分は、その言葉と矛盾しない行動をとれるのか。
言い訳ばかりしていても仕方がないんだよ。 ……少し、周りに苛立つ。 それは自分自身への苛立ちをも含んでいるのか? そうではないと思いたい。 言い訳でなく、ごまかしでなく、本当にしたいことをしているのだと。 そのように胸を張りたい。
そういえば、景色が紅葉している。 そのことに、しばらく気づかなかった。 見えてはいても、認識していなかった。 他のことに、気をとられている。 余裕がない、ということか。 それとも、もっと魅力的なものが。 自分の中に、あるいは周りに。
自分を取り巻く環境と自分自身が変わるにつれて、かつて輝いていたもののいくつかは色褪せてしまい、別の輝くものを手にいれる。 重要なのは、失うものと得るもの、どちらが多いのかということ。 そして、もう一つ、いつまでも色褪せないものを手にいれられるだろうか、ということ。
2002年11月15日(金) |
平坦な戦場で俺が生き延びること |
言い訳をしていても何も解決しない。 たとえ逃げてもどこまでも後悔が追ってくる。 終わりなき旅でも続けてさえいれば、前に進んではいる。 円を周り続けていれば終わりはないが、螺旋なら終わりはある。 くだらないことをしてくだらない時を過ごすために生きているわけじゃない。
自分のしたいことをするために生きている、とてもシンプルで、でも難しいこと、それをしつづけるために闘っている。
『世の中みんなキレイぶってステキぶって楽しぶってるけど、ざけんじゃねえよ』 『ざけんじゃねえよいいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロ』(岡崎京子『リバーズ・エッジ』)
以前からの懸案の一つが解決された(と、少なくとも今のところは思う)。 まずは、一息というところだろうか。 どうも上手く事が運びすぎて逆に拍子抜けしたところもあるが、人間関係というのは上手くいくときはいくし、いかないときはどうあがいてもいかないものなのかもしれない。でも改善の努力をするのを怠ってはいけないけどね。
『恋愛と情熱とは消え去ることがあっても、好意は永久に勝利を告げるだろう。』 (ゲーテ『温順なクセーニエン』第三集)
2002年11月07日(木) |
空疎な言葉と事実としての行動 |
自分は安全なところにいて、自分が困らない範囲でのみ他人の(あるいは何らかの出来事の)心配をして、結局は何もしていないのに、それで何かをした気になっている人間が嫌いだ。 安全なところにいるのも心配することもそれ自体は全く良いと思うのだが、何かをした気になっているところが(個人的に)問題だと思う(安全で困らない場所からでも何かをできる場合はまだしも)。 行動しないと「本当」ではない、と思う。例外はあるだろうけれど、たいていの場合は。 だから、行動を、しようと思う。もし、自分がそうしたいと思うことなら、思うだけでなく、実際的行動を起こすのだ。
このことは、自分の夢を追いかける場合にも、いえる。 夢をただ夢として「いいなあ」などと見ているだけでは、それはただの空想だ(空想自体は別に悪いことではないと思うけど)。 夢は、叶えるものだ。あるいは叶えるために努力するものだ。実際的努力を、行動を。
何よりも、そういうふうに生きてる今のほうが自分自身が楽しいから。
前々から思っていたことではあるが、とくに最近、英語を勉強せねば、とあらためて思う機会がよくある。タイムリーにそういう話題に連続して出くわしたり。 それに際してとりあえず2つのプランを立てた。 1つは自分の意志だけでできるが、もう1つはそうもいかない。 はてはてどうなることやら、結果待ち。
最近時間はやはりないが、それはやりたいことが多いためで、そういう意味では充実しているといえるかもしれない。
2002年11月01日(金) |
学びたいことは多いけれど……多いから、だから。 |
どうも時間が足りない。学びたいことが多すぎる。しかし無理に睡眠時間を削っても結局は活動効率が落ちるだけなので、そういう時間の増やしかたはできない。色々と時間をやりくりするしかないのだろうな。時間の量は一日24時間しかないが、時間の密度を高めることはできるはずだ。それはつまり、(当たり前のことではあるが)同じ時間に自分がどこにいて何をするかということだ。
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