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『思考や発想の道筋は、それ以前に存在している。理論なんて、つまりは、ただのコンクリート舗装か、ガードレールみたいなものに過ぎない。あとから来る人のために、走りやすくする、という役目をしているだけなんだ』(森博嗣『今はもうない』)
ある手法を学んで、それが見事にある問題を解決できるとする。確かにその手法は便利だし、それを学んだ後は他の様々な問題への拡張を試みることになるだろう。でも、本当にそれでいいのだろうか。もっと他のアプローチがありはしないか。誰かが考えた手法をありがたがり使用するだけで、新しい何かが産み出せるのか? とはいっても、先達の手法を学ばないというわけにはいかない。もしも一からすべてを自分で構築しようとすると、全く時間が足りないからだ。有用な知識は活用するが、それらに対して盲目的にならないように心がけることが大事となる。でもそれは言葉で書くほどに簡単ではない。自分オリジナルの手法なんて、思いつくだけでも大変だし、たとえ思いついても、よほどの確信なり確証なりがなければなかなか発表できない。
そして、現状は、必要な先達の知識を吸収するだけでも手一杯なのだ。 早くそこから先へ進みたい。
今日のことではなく昨日のことだが。 ひさしぶりに「言い合い」をした。 「喧嘩」という意味での言い合いではない。 だが、「議論」と呼べるものかは定かでない。
言葉で自分の考えを伝える力というのは非常に大事で、 「言い合い」をすることはそういう力を養う訓練に自然となっている。 別に、訓練のために「言い合い」をするのではないけれど。 そして、「言い合い」レベルではなく、「議論」をしたいとも思う。
「言い合い」の内容について少しメモをしておこう。
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「(自分とは違う考えだけど)君がそう考えるのならそれで構わない。ただ、その考えに自信を持って、それに沿った行動をしてほしい」
「だから、俺と君とはアプローチの仕方が違うだけだよ。目的は同じだ。同じ、などというと、君は怒るだろうけど」
「(内面が)きれいじゃないくせにかっこいいいことばかり言うな」
「理論と実践は違う。理論だけでは身動きがとれなくなる。最初から100%を求めるな」
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良くも悪くも「若い」会話なのだと思う。 哲学的な会話を気取っているだけにならないように、気をつけなければならない。そんなつもりで話していたわけではないというものの。 一つだけ確かなのは、こういうことを話せる君は俺には大事な友人だ。もしかしたら、不毛な言い合いをしているだけなのかもしれないが、それでも大事だ。なぜなら、こういう会話はしないでおこうと思えばしないでおけるが、逆にしようと思っても誰とでもできるわけではないのだから。
ということで、また君と話すだろう。
| 2003年03月24日(月) |
SWITCH BACK |
しばらくの間、更新ストップと前回書いたが、更新する機会があったので更新する。新鮮なうちに、記録しておきたい。 まだ懐かしい人たちには会っていないが、向かうところからはすでに帰ってきた。
およそ都会という言葉とは無縁の場所に向かった。 一応の目的地はあったが、むしろそこに向かう途中の過程そのものが目的であったともいえる小旅行。 列車(電車ではない)に乗っている途中で、「スイッチ・バック」を体験した。線路を折り返すために列車がゆっくりと後退する。
途中までは友人とともに、そしてそこからは一人。 一人になった俺は時代に取り残された山奥の秘境駅に向かう。 山を下ると、廃屋が見えてくる。 衣服の残骸。不釣合いなドラム。 滝が流れ落ちる音。 誰もいない、何もない、小さな駅が見えてくる。 いや、何もないのではなかった。 一冊のノートがある。 ここを訪れた人たち(俺のような)の記録。 俺も記入する。 しかしやはりそれ以外には、何もない。 何もないが、ないということがここにはあるのだ。 それで十分だ、と思った。 向かえの列車が俺を拾いに来るのを静かに待つ。
到着した列車の車掌は、不思議そうな顔をする。 「こんな駅に何の用なんだ?」とでも言いたそうだ。 俺は列車にゆられながら、その駅から遠ざかる。
*(以下、引用)
この話は、これで終わりなのだ。 でも……。 どうして、こんな話を長々としてきたのか? それくらい、最後に語っておこう。 それは……、そう……。 私の人生の中で、この事件のあった夏の一日が、まさに特異点であったからにほかならない。 私は、それまで、一気に上り詰めようとしていた。 (いったい何に?) そんな私にとって、この数十時間は、一息入れるスイッチ・バックだった。 そう……。 気が利いている。 スイッチ・バック……。 私は、ここで、一度後退した。 バックしたのだ。 (中略) そして……、 それからというもの……、 再び……、 私は、さらに急な坂道を上り続けている。 遮二無二……、 上っているのだ。 私の通った道は、いつか朽ち果てる。 あの廃線跡のように、自然に還るだろう。 私が戻ることは、もうない。 戻れない。 たぶん、死ぬまで、二度と……、 こんな機会はない。
だから、書いた。 理由は、他にない。 (森博嗣『今はもうない SWITCH BACK』
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列車に乗っている途中で「スイッチ・バック」を体験したときに、この引用元の小説のことが思い浮かんだ。でも、俺は、「人生はスイッチ・バックできない」といった類のことがこの小説に書いてあったのだと、そう記憶違いしていた。思い込んでいた。 (ある何かに向かって)俺は一気に上り詰めようとしている。そういう今の自分にあった記憶を捏造していた、ということかもしれない(余談だが、こういう捏造は、個人だけではなく国単位でも行われることがある)。 それに一息入れることができた。それは俺にとって一つの収穫だ。 この小旅行は、俺一人では、おそらく存在していない、 俺を連れ出してくれた君に、感謝する、 ありがとう。
(さて、それでは、懐かしい人たちに会いに行くことにしよう)
しばらくの間、日記更新ストップ。
一つの区切り。 明日からは春休み第二章、という感じ。(残りは少ないけれど)
懐かしい人たちに会うことになる。 その前に、向かうところもある。
最近、急速に周囲が動いている。 そう感じる。 その流れの中で俺は何をするべきなのか。
良い流れもあれば悪い流れもある。 良い流れはそのまま流しておけばいい。 問題なのは悪い流れだ。 それらに対して俺ができることは限られている。 やれるだけのことはやりたいとは思うが。 それとて自分に余裕のある範囲でしかおそらくはできないだろう。 そして俺は別に余裕にあふれているわけではない。 さらに何よりも問題なのは。 それらの悪い流れに対して俺が干渉する資格があるかどうかがわからない。 そういう流れが含まれている。
いくら「相手のためを思って」した行為だとしても、そのせいで相手を傷つけてしまったら、それはただの「善意」の押し売りでしかなく、浅はかな思考・行動でしかない。相手のためと言いながら、実際には自己肯定のための言い訳でしかない。ときには何もしないことも必要だろう。その見極めが、難しいときもあるのだが。今もちょうどそうかもしれない。
また、当然のことながら、俺自身の「流れ」にも全力を注がねばならない。
書いていて何だかとりとめがないが……、
「せめて自分に嘘をつかないで生きることのできる強さを」
『今の貴女の世界が、どれだけ中途半端で不自由か考えてごらんなさい。遠くの声が聞こえ、遠くのものが見えるのに、触れることはできない。沢山の情報を与えられても、すべてが、忘れられ、失われるしかない。情報の多さで隣の人も見えなくなる。人はどんどん遠くにいってしまうわ。何故、そんなに離れて、遠ざかっていこうとするのかしら? ピストルの弾が届かない距離まで離れようというのかしら?』(森博嗣『すべてがFになる』)
色々な情報が氾濫していて、その中から取捨選択しなければならない。 少しスピードを落とすと何かに置いていかれるのではないか、という雰囲気さえある社会。 その中で確保する自分のペース。 ほとんどのことを実際に知ることはできなくて、ただ知った気になる程度で終える。 どれくらい一つのことにのめり込み、時間を費やすか。 その割合の大きさが、「主軸」とそうでないものの差。 ただ、いわゆる「豊かな人生」というものを考えたとき、 主軸だけではおそらく「豊か」ではないだろうと思う。 だから、「教養」や「趣味」というものが大事になる(一般論だが)。
しかしながら、最近、主軸のほうに少しかまけすぎているように思う。まあ、別に自分がしようと思うことをしているだけだからいいといえばいいのだけど、バランスも考えないといつのまにか煮詰まってくる。何事もバランス、バランス。などと書くのは簡単だけど。まあ、一つのことばかり見て他のことを見失わないようにという自戒かな。見失っているつもりは今のところないが。これから、主軸に収束していくように打算された事柄が増えては行くのだろうけど。目標に向かうということは、そういうことも含む。でもやはり時々、自分の立ち位置を確認し、周囲を見渡したい。そういう作業は大事だ。加速しすぎて暴走するのは良くない。
この日記の更新頻度が上がっている。 時間にゆとりがある日々を送っているということかな。 嵐の前の静けさ。 というほどのことは待っていないけれど、もう少ししたらまた更新が止む予定。
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ここでとりとめもなく書いているようなことを話すかもしれない機会が与えられた。 とはいっても、(編集はあるだろけど)公の印刷物に載るので、極論的な発言は慎むようにしないとなあ。 かといって、当り障りのないことばかりを言うのも意味がないので、バランスをとりながら。 結局はその場の雰囲気でいくしかないけど。
そういう機会は初めてなので、楽しみだ。 上手くやれるか少し不安もあるけれど、選ばれたのは光栄なことだと思う。 (もっとも、選ばれた理由はわからないので、実は光栄じゃない理由かもしれないけど)
今は春。 僕はそれを思い出す。
身勝手な思考。 不甲斐ない行動。 そこからどこまで脱却できたのか、定かではない。 でも、一年前と比べれば今のほうが自分に自信がある。 まだまだ十分だとはいえないけれど。 そして満足することはおそらくない。 それでいい。 満足するまでは、どこまでも飛んでいける。
(というか、まだ飛び始めてすらいないのかもしれない)
『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという』 (ヘッセ(高橋健二[訳])『デミアン』)
| 2003年03月15日(土) |
とり返しのつかないことの連続としての人生 |
色々な選択を迫られる局面がある。 例えば、何かと引き換えに何かを手にいれるというとき。 この場合、「本当にその何かを引き換えにしなければならなかったのか?」と自問することがある。いくらそう思ってももうどうしようもないのだが、それでも思うときがあり、それを人は「後悔」と呼んだりもする。まあしかし、やはりそんなことは考えても仕方がないのだ。「後悔先に立たず」とはよく言ったものだ。大事なのは、そのときそのとき自分がベスト(あるいはベター)だと思う選択を自分に忠実に行い、それを悔やまないこと。まあ、なかなかそう簡単にできることではないけれど、そういう簡単でないことをしようとしてそういうことを何度も経験することで人間は「成長」していく側面があるのだと思う。 今までだってそうしてきたし、これからもそうやって生きていくのだろう。
『自分が不幸だとは思わない。自分は常に最善の選択をしたのだから、今よりも幸せにはなれなかったはず。過去のどこを探しても、間違いはなかった。どこへ戻っても、きっと同じ道を選ぶだろう』(森博嗣『月は幽咽のデバイス』)
これくらいに強く生きられればとね、思うのだよ。
(ところでこの引用元の本、この部分をたまたま立ち読みしただけで他は実は読んでいない)
| 2003年03月13日(木) |
終るということ 残るということ |
夜、小旅行から帰宅。 行く前には予定していなかったところにも寄り、そこが「当たり」で満足。 まあ、予定外とはいっても、そもそも行き当たりばったりという感じで予定はほとんどなかったけれど(笑) 具体的な小旅行記はwebとはまた別に記すので、ここではとくに触れない。ここは一応webという性質上、あんまり具体的なことを書くつもりはないので。
一つの非日常(旅行)が終わった。 そしてまた僕は日常へと戻っていく。 たくさんのやらなければならないこと、 いくらかのやりたいことをするために。
非日常はたまであるからこそ非日常なのであって、それが終われば日常に戻る。
ほとんど何にでも終わりは、来る。 でもこれだけは確かだ。
「今回の旅行は楽しかった!」
明日から小旅行。西へ。 春休みに入ってから初めて春休みらしいことをする気がする。 「春休みらしい」ことが何で、「春休みらしくない」ことが何なのか。 それはよくわからないけれど。 自分で充実していると思える春休みを送れれば、それでいい。 などと言っていられる社会的年齢である今は貴重なのかもしれない。 でも、その「充実」というのも得体の知れない感覚なのだ。 得たいの知れる感覚のほうが、少ないかもしれないのだ。
『旅人は、常に自分というものの小ささ、そしてなり得なかった、またはなることの決してない自分というものの大きさを知ることができる。』(引用元不明)
(まあ、今回のはそんな大げさな旅行じゃないけれど)
今日は大学に行くと人だかりが。 どうやら、今日は大学入試の合格発表日だったようだ。 胴上げしていたり、「合格してた!」と喜びの声が聞こえたり。
俺が合格したときは、どうだっただろう。あまり印象に残っていない。 合格して安心はしたと思うが、それほどに喜んだ記憶はない。 自分で望んで受験した大学のはずだったのだが。 大学入試は人生の通過点の一つでしかなく、そのことを感じていたのかもしれない。 もっとも、こんなことは今だからこそそう書けるのであって、当時に本当にそんなことを感じていたかどうかはわからないが。
大学入試までは、決められた枠組みがあり、その中でベストを尽くせばいい。 (受験をしないという選択肢ももちろんあるが、ここでは受験するとした場合) 先日会った高校時代の友人(浪人経験あり)がこう言っていた。
「浪人時代は楽だった。浪人がしんどいなんていうのは嘘だ。少なくとも俺にとっては」
志望大学合格という具体的な目標が与えられている。 それを奨励する社会環境がある。
そして、合格できた場合。 ここからが本当のスタートライン。 それに気づくのに、どれくらいの時間がかかるかは、個人差がある。 また、気づいたからといって、次の一歩が重いこともある。
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組織の中で 人は思考を停止し全てを何かに委ねることで 安らぎを覚えることがある 何を委ねるかを 何を捨てるかを 選択する必要も無い世界で
全てに答えが用意され 人は尋ねることはあっても 答えることは無い
人はそこを楽園と呼ぶ
智恵の実を食べる前の アダムとエバの世界
しかし本当は この世に楽園など無いのだ (引用元不明)
とことこ動く機械仕掛けのおもちゃ。 お世辞にも上手いとは言えない自画像。 どこかに転がって消えた白いテニスボール。 どこからか漂ってくる甘いお菓子の匂い。 懐かしい人たちの笑顔。 ただいま。おかえりなさい。 何気ない言葉や仕草。 かけがえのないはずだったもの。
『それらの音も、光も、少年の思い出とともに、地球上のすべての大気に飛散し、拡散し、消散して、今はもうない。』(森博嗣『今はもうない』)
爆破して飛び散った心の破片が そこら中にキラキラ光ってるけど いつの間に私はこんなに弱くなったの (鬼束ちひろ『infection』)
生きていく中で、いろんなものを手にいれて、それを守りたいと思うようになる。守るべきものができると、何をするにしてもリスクを考えるようになる。その守るべきものを損なわないでいるために。しかしいつまでも損なわないでいることはたぶんとても難しいことであり、また、自分一人の意志ではどうしようもない場合もある。どういう選択をしても何らかの後悔はするだろうという時もある。どのような選択をしようとも何かを損なうというときは、自分に忠実な選択をしてもいいと思う。それは利己的であるということじゃない。自分で自分のために自分の選択をすることは当然の権利。そのはず、だ。
もっとも、そのように簡単には割り切れない場合が往々にしてあるから、厄介なのだけど。
空気と光と そして友だちの愛 これだけ残っていたら 弱りきってしまうな (ゲーテ)
ここのところしばらく、ある懸念があったのだが。 今日、ありえない(というくらいに予想外の)解決を。 結果としては自分の理想通りになったからいいのだけど。 その過程が、 「自動販売機でコーラのボタンを押したらお汁粉が出てきた」 くらいの衝撃(笑撃?)
まあ、結果オーライだけど、気に病んでいた俺は何だったんだ…。 いいんだけどさ…。
(といっても、何のことだかわからないけどさ)
| 2003年03月02日(日) |
目的の犠牲としての手段、そうでなく幸福としての手段 |
目的を達成するためには手段がいる。 やりたくはないけれど、目的のために取らざるを得ない手段。 これは、目的のために死ぬ手段。持続させるのに困難を伴う手段。 手段そのものに対して、その目的に匹敵する満足感を得られるとき。 これは、幸福な手段。持続させやすい手段。
『われわれの日常生活では、目的が手段に、手段が目的になっている状態を幸福と呼ぶことが多い。私はふだん自分の妻を快楽や便宜を達成する手段としているが、しかし、病気の妻を看病することになったとき、看病は私自身の生き甲斐になるだろう。理屈で考えれば、妻は自分の快楽の手段である、妻の健康を回復しようとすることは、自分の利益になるという目的と手段のつながりが成り立っていることになる。しかし、それは嘘である。妻の看病をすること自体が、自己目的となることができる。目的と手段が一致していることが最高の幸福なので、目的のために手段が犠牲にされることは例外的な、それ自体不幸な場合である。』 (加藤尚武『戦争倫理学』)
不幸な場合も時としてあるのだけど、 それは乗り越えるべきハードルだと思うことにする。 その先を、目指して。
(恵まれているから、簡単に「乗り越える」などと書けるのかもしれないけれど)
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