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2003年04月30日(水) |
Tiger in my Love |
変化や速度をおそれてはいけないよ やせ我慢ではなく ぼくは年をとるということはすばらしいと思う それこそ新しい経験さ 思い出も喜びも攻撃性も欲望も静けさも徐々に会得したものだ 若い日々の行動を忘れてしまうことも新しい経験だよ
みんなどんどん何でも忘れてゆき ただ欲望だけが変わらずあり そこを通りすぎる名前だけが変わっていった (岡崎京子『ヘルター・スケルター』)
消費物であふれかえった社会。 欲望の形は誰かにすでに与えられており、 その中から選ぶだけであることがほとんど。 誰かが指定した「楽しいこと」を欲望することがほとんど。 実際に楽しい場合もけっこうあるのだけど、 そういう楽しさだけでは飽きてしまう。 死ぬまでそれだけでは飽きてしまう。
それとも、飽きずにいられるように、新しい「楽しいこと」を誰かが用意してくれるのを追いかけつづけるか? 消費される欲望にあふれたこの社会でなら、それでも楽しめるかもしれない。 でも、すでにそれが楽しいとは思わないことがあるのはなぜだろうか? そう思う自分をごまかしてこれからいつまでも生きていけるだろうか?
それは無理だ、というより、嫌だ、と俺は思う。 誰かに与えられたのではない「つらぬけるもの」を持ちたい。
(といっても、「楽しいこと」を消費したいと思うこともあり、でもそれだけでは嫌だ、という話。これもやはりバランスの問題だ。「バランスの問題だ」というのは便利な言葉だな)
2003年04月27日(日) |
こんなもののために生まれたんじゃない |
『大衆はテレビの前にぽつねんと座って、頭にメッセージを叩きこまれていればよい。テレビはメッセージを繰り返す。人生の唯一の価値は、もっとモノを所有し、お前が見ている裕福な中流家庭のような生活をして、社会調和とかアメリカニズムのようなすばらしい価値観をもてることだ。人生にはそれしかない』(ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』)
「子供は雑多な社会にぽつねんと囲まれ、頭にメッセージを叩き込まれる。「大人」は愚痴を言う。人生の唯一の価値は、楽にやりすごし、適当に遊びながら、自国批判やナショナリズムによってアイデンティティを保てることだ。だから諦めろ」
(僕のせいでチョムスキーが誤解されるといけないので書いておきますが、上記のチョムスキーの言葉は反語的な意味合いで引用元の本に書かれています。蛇足ながら、それに倣って作成した僕の言葉(日本版)も)
2003年04月24日(木) |
もう二度とは戻らないあのころの未来へ |
それでもいったいこの僕に何が出来るって言うんだ 窮屈な箱庭の現実を変えるために何が出来るの (坂本真綾・岩里祐穂・菅野よう子『ヘミソフィア』)
そうやって言い訳しているだけで、 本当はやれることがあるはずだ。 ただやろうとしていないだけだ。 そんなことをいつまでも繰り返していられるほどに若くはない。 でも、変えようと思えば変えられるくらいにはまだ若い。
だから、俺はあのころの俺を変えようとして、 いくらかは変われたと思う。 それは一年前に失ったものを埋めるための作業でもある。 世の中には永久に取り戻せない性質のものがあり、 俺が失ったものはおそらくそれに属するのだと思うけど、 だからといって泣いてはいられない。 一つの物事の終わりが訪れても、俺の人生はまだまだ終わらないのだから。 それが、小説や映画とは違うところだ。
2003年04月23日(水) |
私的で素敵なイコールのために |
自由な時間が増えたはずなのだが。 なぜか、忙しい。 時間があるからこそ、しようと思うことがある。 そうすると、今度は時間が足りなくなる。 全く中途半端で不便なものだな。
充実しているということと、 忙しいということを、 イコールで結べるだろうか? それは時と場合と自分による。
一つの終わりは、一つの始まりであり、 寂しさに言い訳せず、期待の感覚を抱く、 そのとき僕は、ギアを切り換え、 またがむしゃらに、走り出すのだ。
そうやって生きてきた。 そうやって生きていく。 そう言えるように生きたい。
『高ければ高い壁のほうが上ったとき気持ちいいもんな まだ限界だなんて認めちゃいないさ』(Mr.Children『終わりなき旅』)
2003年04月16日(水) |
Negative Happy |
『あらゆる悪徳こそが人間存在の本質であり、善とはただかろうじて悪でない状態に過ぎないのだと考えるならば――』(映画『害虫』)
人生の転機となったであろう数日が終わった。 自分だけに限定すれば、おそらくベストを得た、と思う。 だが、限定を外せば、そんなに晴れ晴れとした気分でもない。 悲喜交々の、光景。 俺の周りのほとんどは「喜」のほうに属していたのだけど。 でもやはり全員ではない。 しかし、じゃあ、俺が身代わりになってもいいか、 と問われると、それは嫌だ、と答えるのだから、 所詮はそこが俺の限界だ。
できるなら、この狂ったシステムを破壊したい。 こんなことで人の進路を決めるんじゃない。 以前に、そう訴えたこともあったけれど、 結局、何も変わらずに時は過ぎ、今に至る。 それは、俺がただ叫んでいただけで、無力だったからだ。 それに、何かパーフェクトな代替案があるわけでもない。 ベターを模索したいとは思うけれど。
『およそこの世で最も真実らしくないものを――』(映画『害虫』)
別に今回のことに限らず、一般的にいって、 何かを変えたいと思ったら、口で言っているだけではダメだ。 大きなシステムに抗えるのは、大きな力だけだ。 大きな力、というのは、小さな力の集合でもいい。 だが、そういう集合はいつも実現できるわけではない。 だから、個人の「力」も必要だ。 俺はそれが欲しい。 狂ったシステムを変えるため、 力になりたいと思う人のため、 そしてもちろん自分のために。 (「狂った」という判断は、主観的な判断でしかあり得ないが)
今は否定的な幸福に包まれている。 この気分はしばらくは消えないだろう。 でも、しばらくすれば、消えるだろう。 忘却できるから、生きていける。 そうでなかったら、俺はとっくの昔に、 どこかの屋上から飛び降りているだろう。
『列車の揺れに体をまかせながら、いつまでも、いつまでも私は泣いた。そうして、私にとってもまた、ひとつの時代が終わっていくのを感じていた』(島田荘司『龍臥亭事件』)
(列車に揺られても泣いてもいないけれど、ひとつの時代は確かに終わった、と思う。それは、寂しい、ということと同義だ)
「リスクとリターン」について、俺自身が考えなければならない事態に。 選択肢はけっこうあったはずで、 そのどれかは実現できると思っていたのだが、 そのどれもが困難に。 想定していた中で最悪のケースだ。 それはつまり、最高にリスクが高いということ。 リターンは、変わらない。 どのようなケースであろうとも。
思い切って手を放すか、 一歩後ろへひくか。 それが問題だ。 問題なのは自明なのだけど、解は全く不確定だ。 残された時間はもうあまりない。 ベストorワーストの賭けか。 妥協か。 考えても、明確な答えは出ないのだけど。
『あんまり自問しすぎると今度は身動きがとれなくなるから、注意が必要だ』 (web日記『2003/04/12』)
大学のある友人が進路について非常に迷っている。 (まあ、たいてい誰でも迷うだろうけど) 俺は俺の意見を述べることしかできない。 結局は本人が決めるしかないことだから。 キーワード的に書くと、「リスクとリターン」の問題について悩んでいるようだ。
『失敗も挫折も行きづまりもみな、自分により適した居所を見つけるまでの試行錯誤の一コマという考えを許容するくらいには、この平成の成熟社会はフレキシブルにできているはずだ。人生、これをクリアすれば後はすべてのテストから解放される大学受験みたいなゴールはない代わりに、生きているかぎり、やり直しの機会は幾度もやってくる。 もっとも忘れてほしくないのは、同じ試行錯誤に費やすにせよ、やはり大学時代ほど余裕を持てる時期はもうとうていないと、きみたちの先輩のほとんどが回想しては悔やんでいることだ。単位目当ての出席や試験対策以外、ほとんどの時間を自由に生きてよく、「世間」もそれを許してくれる、まず一生でいちはんの猶予期間・・・・・・。』 (浅羽通明『大学で何を学ぶか』)
理想としては、この引用のようなことを言いたい。 つまり、「リスク」をとってもいいじゃないか、と。 だが、いざ実践するとなると、なかなか簡単ではない。 だから、軽々しくは言えない。 リスクをもしとったとして、そのあとに俺が手伝えることはほとんどないだろう。 いや、考えてみれば、他人のためにしてやれることなど、もとからほとんどないのかもしれない。 困っている友人、悩んでいる友人を見て、励ますことは(少なくとも表面的には)できても、実際的な力になれるケースは、ほとんどないように思う。 そして、何もできない自分にいつも苛立つ。 だからといって、何かをしてやれると思うことも傲慢でしかない。 そういうのを認めたところから出発していつか戻って来られるだろうか? いつか誰かに苛立ちでも傲慢でもなく自然に何かをしてやれるだろうか? あるいは、今までに、そうできたことがあっただろうか? わからない。 だが、そうであることを願う。
何かを決断しなければならない段になると、 自分に言い聞かせること。
「自分にとって都合の良い面ばかりを見ようとするな」
だからといって、逆に悪い面ばかりを見てもダメですが。 人間、何かに迷っているときは、 「もう決めてしまいたい!」 と思っているので、 聞こえの良いほうに傾きやすい。 でも、本当にそんな良いことばかりなのか。 無意識に、都合の悪い面から目を逸らそうとしていないか。 あるいは、最初から思考を放棄していないか。 そういうことを、少し立ち止まって、自問する。 あんまり自問しすぎると今度は身動きがとれなくなるから、注意が必要だけど…。
『面白ければ良いんだ。面白ければ、無駄遣いではない。子供の砂遊びと同じだよ、面白くなかったら、誰が研究なんてするもんか』(森博嗣『冷たい密室と博士たち』)
ていうか、面白そうなのけっこう色々あることが判明したんですが、どうしよう?(笑) まあ、といっても、実際にはほとんど絞れているんだけどね。 やはり、前から考えていた中で、選ぶことにする。
ああ、どれを選ぶにしろ、楽しみだ。 ……まあ、表面的に見て想像しているものと内実とのギャップがありはしないかという不安もあるけれどね。 (それ以前に、最終的に希望通りに行くかどうかの不安もあるけれど…)
何かを決断しなければならない段になると、 自分に言い聞かせること。
「楽な道よりも楽しく行きたい」
楽でかつ楽しいなら言うことはないけれど、 なかなかそうは上手くいかないし、 それに、人間は(少なくとも俺は)贅沢なもので、 楽すぎると楽しくなくなる(充実感が得られなくなる)。 だからといって、わざわざ茨の道を歩みたい、というわけではない。 それではただのマゾ的な思い込みだ。 思い込みではない「楽しさ」を得たい。 本当に楽しくなければ、人間は本当には笑えない。
嘘の笑顔で生きていきたいですか?
『面白ければ良いんだ。面白ければ、無駄遣いではない。子供の砂遊びと同じだよ、面白くなかったら、誰が研究なんてするもんか』(森博嗣『冷たい密室と博士たち』)
2003年04月09日(水) |
錯綜する事象=思考する自分=行動する結果 |
何もかも放り出したら、どうなるだろう? 雑多な事象が折り重なって押し潰されそうになるとき。 そういうときに、ふと、そう思うことがある。 でも、そういう思考はすぐに消えてなくなる。 そんなことをしても、どうにもならないことがわかっているから。 そんなことをしたら、いまある大切なものさえ失ってしまうから。
そして、永久に、手に入らないから。 ……でも、いったい何を? 僕は何を手にいれようとしている? 俺は何に向かおうと行動している?
『われわれ人間は不連続の存在であり、不可解な偶発事のなかで孤独に死んでゆく個体であるが、失われた連続性への郷愁をもっている。そして、偶然の個体に釘づけにされ、死ぬべき個体に縛りつけられているわれわれの置かれている状況が堪えがたい。この死すべきものの存続に不安な望みをいだくと同時に、全的にわれわれを存在に再び結びつける原初の連続性に対する執着をもっている』(ジョルジュ・バタイユ)
2003年04月08日(火) |
収束する余暇=始動する日常 |
今日で春休みも終わり。 やり残したことは考え出せばおそらくキリがないだろうが、 とりあえず、それなりに、やりたいことを収束させることはできた、と思う。
また明日からは、いつもの空間に、いつものように、いつもの面子に会いに行く。 それは実はもうあと少ししか残されていない日常なのだけど。 別の新しい日常が取って代わるときは近い。 それが好ましいか好ましくないかに関わらず、現実は干渉してくる。
それに対処する際の心構えの一つとして……、
『運、不運は、「事」の表裏にすぎない。裏目がでても、すぐいいほうに翻転できる手さえ講ずれば、なんでもないことだ』(司馬遼太郎『功名が辻』)
2003年04月07日(月) |
駆動する身体=伝達する言語 |
今日は、留学生と「花見遠足」をした。 異なる国からの人々と、walking。 歩くというのは、人間の基本的な能力の一つ。 この地上に、人間以上に器用に二足歩行できる生命体がいるだろうか。 たとえ言葉が通じない相手とでも、ともに歩くことはできる。
それに、言葉も、実は通じた。 共通語としての英語。 たどたどしい英語でも、それなりに伝わる。 伝わると、嬉しい。 (誤った伝達がなされていないという保証はないけれど) 言語による他者への伝達というのも、人間の基本的な能力の一つ。 (今回使用した英語自体は基本的な能力として備わっているわけではないが、一般的に言語というものを操れるという能力が基本的)
これら二つの基本的な能力が幸福な結婚をしたとき、楽しいときを過ごせる。 たとえば今日がそうだ。
(基本的な能力とはいっても、誰でもそれらを享受できているわけではないのだけど。基本的なことを基本的だと思えるというのは、それだけで幸せなことかもしれない。ただ、普段は、当たり前すぎて気づかず、それだけでは満足できないのだ)
現実をある画面内に切り取ること。 写真であったり、ビデオであったり、フィルムであったり。 切り取った時点で、その前とは異なるのだけど、 切り取り方によっては、「現実」が表わすものをより強調することができる。 受け手の解釈を誘導するように演出することもできる。 切り取られた画面には、切り取った者の意図が加わる。 つまり、それが、映像表現、というもの。 (もちろん、被写体のポテンシャルにも左右されるのだけど)
『ああいうフィルムほど人を勇気づけるものはないよね、彼らは無邪気で、真剣で、途上にあって、若くて、しかも現実にはすでに権力を握っているんだ、スピードの頂点にいるわけさ、ボク達を撮ったものはどうなのかな』(村上龍『愛と幻想のファシズム』
*
何かを表現するための手段はいろいろとあって、 言葉、音楽、映像、これらは最もポピュラーな手段。 でも、言葉以外は、使わないことが多い。 音楽も映像も氾濫しているといっていいほどだけど、 ほとんど一部の人間だけが生産・創造していて、 それらを受け取るのが、その他大多数。 言葉だって、十分に表現しようと思えば、 誰にでもできるわけじゃない。 (だからこそ、たとえば小説家というのが職業として成立するのだけど) だから、たいていの人間は、 何かを表現するのに、ポピュラーでない手段を使う。 というか、それを探している途上にいる。 自分の生き方を模索している、といってもいい。 表現とは、自分だから。
「音楽」というのにも種類がある。 普段は、POPを聞くことが多い。 (たいていはパソコンで作業をしながらだけど。たとえば、今もこれを書きながら聞いている) 今日は、クラシックのコンサートを聞きに行った。 POPとは「速度」が違う。 基本的にはゆるやかなのだけど、ときに激しく旋律する。 テノールの声が響き渡る(今回のは、このテノールがメイン)。 旋律は、言葉では表わせない感情を表現しえる。 歌は、短い歌詞で複雑な感情を代表しえる。 およそ原初的な言葉として。
(言葉にはできない音楽を言葉にしようとしても俺には遠すぎるな)
『モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂ひのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」といふ言葉のようにかなしい』(小林秀雄『モオツァルト』)
(ちなみに今回のコンサートにモーツアルトは直接関係ありません)
この日記では文章を引用することが多いが、引用した文章を振り返ると、引用が多い作家(作家でなく映画などからの引用の場合もたまにあるけど、とりあえずここでは作家)でも今は読んでいないということがある。理由としては、引用が多いということはそれだけその作家の本を読んだということであり、まだ読んでいない本の絶対数がそもそも少ない、ということもあるだろうし、また、単純に「飽きた」ということもあるだろうし、良い作品を書く才能が作家に枯渇してしまった、あるいは俺とは合わない方向性へと変わった、つまり新作を読む気にならない、ということも考えられる。もしくは、その作家の絶対的な位置は変わっていないが、他にもっと読みたい本があって、相対的に読まなくなる、ということも。 ただ、理由がどれであれ、かつてその作家が好きだった(多くの作品を読んだのだから、きっと好きだったのだろう)という事実は変わらなくて、それは、もし仮に今から振り返って「しょうもないなあ」と思うような作品さえあったとしても、やはり事実として変わらない。その作品を読んでいるからこそ、「しょうもないなあ」と今思うような俺になっているのかもしれないし、その作品でその当時に受けた影響の結果が今の俺なのだ。まあ、影響といっても、影響を受けたと意識するほどの作品はそんなにいくつもあるわけでないけれど(無意識に蓄積している影響なら、多くの作品からあるだろうけれど)。
ここに引用している文章には、言葉を代弁させるという役割のものも多い。 自分では上手く言葉にはできない思考(しかし思考としてはすでに存在している)を、ある作家がある作品内で言葉にしているのを発見して、それを書き留めていたものを、引用する。 中には、書かれている内容そのものが自分には新しかった、という引用も、もちろんある。 でも、その区別は時間が経つにつれだんだんと曖昧になる。 後になって振り返ると、そのような新しいものも、今の俺の血肉となっているからだ。
人間関係の絆としがらみ。 紙一重、なのだ。 ただ、普段、とくに何もないときは、 その微妙なバランスの上を器用に歩いているだけなのだ。 そのことを意識するときは、 たいてい、 バランスを崩したときだ。
そのときに自分に何が残っているか、 自分はすでに何を捨てたか、 いま何と何を天秤にかけているか、 を考える。 考えても答えがでないこともあるのだけど、 その場合、 答えがでない、というのも、 一つの選択になる。 望むと望まないとに関わらず、 選択している。 無常に過ぎていく時を、 捉えることはできない。 でも、加速することなら、 ひょっとしたら、 できるかも。
『人は誰でも荷物を持っていて、その荷物を捨てるわけにはいかない。一生、それを持って歩かなければならない。たとえば、自分の身体が荷物だし、自分の周りの人たちも荷物になる。自分も誰か他の人の荷物になる。重いからといって捨てることは簡単だが、それを背負っていくことが、人間としての生き方だと思う』(森博嗣『今夜はパラシュート博物館へ』)
『人間と地面も違うだろう? だから立っていられる。人それぞれも違うのだから、お互いに摩擦が生じて、その摩擦のおかげで、滑らずにすむんだよ。摩擦がなかったら、すってんころりんだからね』(森博嗣『数奇にして模型』)
(ところで最近、森博嗣からの引用がとくに多いのだが、これは、ひさしぶりに森博嗣の小説を読んでいる、というのが理由の一つかもしれない。言葉が、俺に合うのだと思う。もう一つ、森博嗣の小説を友人に貸すことになったので、その際に少しパラパラと眺め返したのも、理由の一つかもしれない。いや、きっとそうだろう)
2003年04月02日(水) |
趣味――個人的に曖昧な概念の一例 |
本を衝動買い。 一気に何冊も購入しても読めなくなるのは目に見えているのだが、ついつい買ってしまう。 さて、まずはどれから読んでいくか…。 ジャンルがバラけているので、どのジャンルから読むか、という選択ともいえる。 どれかしか読めないという場合、「実用性」を優先する場合もあるが、今回はどれも実用的とはいえそうにない。というか、(直接的に)実用的な本は別に平行して読んでいる。そういうことができるのが、春休みだといえるかもしれない。もっともそれは比較的予定が埋まっていない場合の春休みであって、どうも今回はあまり読めそうにもないかな……(だったらまとめ買いするなよ、俺<自己ツッコミ)
読書は趣味の一つといえると思う。ただ、読書が趣味、というのは漠然としすぎていて、とくにどういう本が好きかというレベルにまで話がいかないと、あまり「趣味」という感じはしない気もする。それと、読書は基本的に受動的であるのに対して、「趣味」は能動的に何かを自分でするというイメージもある。もしかしたら誤ったイメージだろうか? どうだろう? (ちなみに、読む姿勢に関して「能動的な読書」も存在するだろうが、それはまた別の話)
ところで、読書は趣味の一つということは、二つ目、三つ目…は何なのだろうか? いざ「自分の趣味は何か?」と問うと、なかなか答えに詰まる。 趣味がないのか、といえば、そうでもなく、思い浮かぶものはある。 ただ、「趣味」という言葉のニュアンスが、俺にとって曖昧なのだ。 趣味と勉強の違い、趣味と仕事の違い、趣味と本気の違い、あるいは「違わない」、etc. そして、上でも書いたように、受動と能動の差異。 曖昧な概念の霧の中から取り出せない。 別に、曖昧なままでも普段は困らないのだけど、それに関する質問をされたときに困る。 これは趣味に限らず、曖昧な概念、言葉にはできないけれど思考としては存在するもの、に共通だ。 そういったものをもっと具体化し外部に出せる力を磨きたい。 もっとも、外部に出した途端に「嘘」になってしまうものもあるのだけど。
2003年04月01日(火) |
今日はフールなエイプリル |
今年度最初の日。 そしてかなり不毛なスタートとなった。 今日はわりと強い意志(のつもり)でやると決めていたことを全くできなかった。 とりたてて何もしないで終わる日というのは今日だけではないが、あることをやると強く決めていたのにできない日というのは格別に虚しい。 「次こそは」と思うこと自体が、今日の言い訳になってしまっていたのかもしれない。 でも終わってしまったことに関しては、「次こそは」と反省するしかない。 今日のどこが悪かったのか、ということを考え、それを糧にしながら。
『天才は直観で悟る。凡人は経験で悟る。愚人は過ちを繰り返す。』(引用元不明)
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