私のパソコンは、よほど持ち主との相性が悪いと見える。 また何度もバグや、エラーが続き、このままだとまたダウンするおそれがあるので、また、OSの入れ替えをすることにし、昨日、連れ合いに立ち会ってもらって、実行した。 今年になって4回目である。 OSの入れ替えは、そう難しいことではないが、それに先立つファイル類の保存が、厄介なのである。 入れ替えの度に、何か失われる。 最初の時は、保存した筈のCDが、書き込み不能の物だったため、開くことも書き換えることも出来ず、結局、失われたも同然になり、メールも全部、なくなってしまいoutlookも、凍結状態になり、別のメールソフトを使うなど、苦労した。結局また入れ替えた。 その後、失敗は成功の母とばかり、保存のやり方は、何とか出来るようになったが、全部保存したつもりが、忘れている物があったりして、やはりいくつかのファイルがなくなったりしている。 今回も、ソフトに入れてあった日記帳の保存を忘れていた。こちらは、まだあまり書き込んでなかったので、また新しく作った。 ホームページだけは、前回の失敗で懲りたので、念入りにCDに入れた。 ただし、サーバーにアップロードするとき、またアドレスなど、入力し直す手間があったが・・。 今日は、ホームページの写真をひとつ入れ替えたので、アップしてみたが、無事に戻っているようなので、ほっとした。 連句の百韻作品を、ホームページに載せるべく、書き込み中である。 これは、ファイルは失われたが、プリントアウトしてあったので、助かった。 もう一度入力し、それに解説を入れているので、2ページ分になりそうである。 連句は、出来た物をただ表示しても、おもしろくない。その過程に意味があるので、ボードでライブを見るのが一番いいのだが、作品として載せるときも、少し、背景を入れることにした。 もう5月も終わりに近づいた。今日あたり、午前中はいい天気だった。午後から薄曇りになり、雨が降るかと思ったが、大丈夫だった。 明日は、久しぶり親の顔を見に行こうかと思う。 2002年05月30日 01時28分30秒
昨日渡辺えり子作、文学座芝居「月夜の道化師」をみた。 この人の作品は初めてだが、なかなか見応えがあった。 一家の主としては存在感の薄い頼りない男と、典型的な主婦型の妻、呆けた母親、戦死した父親の弟で、なぜか独身のまま、この家に住んでいる叔父、話は母親を中心に展開するが、シナリオは二重構造になっていて、この一家の戦後史が、しだいに明らかになる仕掛けがしてある。 呆けた母親と叔父は、昔恋仲だった。しかし、ふとした過ちでその兄の子を宿し、出征前に結婚する。弟の方は、結核を患っていたため、応召せず、戦死した兄の妻を守る形で、家にとどまる。 しかし、戦死したと思われた兄、つまり呆けた母親の夫は、実は特攻隊の脱走兵で、戦後身分を隠して生き延び、阪神大震災で終わったのだった。 そうしたドラマの中で、母親のボケが何に起因するのか、解ってくる。 命つきる前、幻のごとくに、満月の中でダンスを踊る母親と、かつての恋人だった叔父、このラストシーンは、涙が出た。 戦争の痛みを生涯背負って、生きなければならなかった人々、その傷の深さはそれぞれ違い、人間の数と同じ数のさまざまなドラマがあったはずである。 その一つを象徴する形で、戦後生まれの渡辺が書いたところに、意味があるのだろう。 帰宅の途中、バスを待っていたら、酔ってバス停に転んだ人がいた。助け起こしたのは、若い男性だった。年配で、かなり酔っていた初老の男の人は、バスに乗り込むのがやっとだった。 青年は、前の方に並んでいたのに、全部が乗り込むのを待って、初老の男の人を、空いていた席に案内した。そして、見守る形で、そばにさりげなく立った。ことばは発しなかったが、やさしい心遣いの出来る人だと解った。 こういう青年が、優しさ故に、傷ついたりしない社会であってほしいと思いながら、バスに揺られていた。 2002年05月24日 01時03分58秒
今日着いた郵便物の中に、珍しい人からの葉書があった。 3年前まで、とても仲良くしていた人。 私より5年ほど年上で、歌を通じて知り合い、何かにつけて相談相手になってくれたり、いろいろな話を聞いてくれたりして、世話にもなった。利口な彼女は、人望があり、交友も広く、人の面倒見が良くて、私にないところがたくさんあった。 でも、ある時から、私の方から、一切の付き合いを絶っていた。それまで、頻繁にやりとりしていた電話、ファックス、手紙、それらをすべてご破算にして、交友を絶った。一方的な決別宣言に、彼女の方も一切、返すことなく、そのまま時が経ったのである。 昨年夏、私はある音楽会で、偶然彼女に遭った。短い休憩時間の間だった。 どちらからともなく、「あら」と声を掛け合い、昨日の続きのように話をし、ベルが鳴ったのでそれぞれの席に戻った。 帰りの電車の中で、なぜか涙が止まらなかった。 でも、それきりどちらからも近づくことなく、1年近く経っていた。 先週の金曜日、以前習っていた歌の先生からの招きで、音楽会に行ったことを書いたが、その会に彼女も出演していた。 終わって帰りかけると、ほかの人たちと一緒に、彼女が居て、私を先生の楽屋に連れて行ってくれた。その時も、何の屈託もなかった。 楽屋で衣装を着替えるという彼女と、そのまま別れて帰ってきた。 そして、今日の便りだった。発表会に来てくれて有り難うということば、それに、最近引っ越して住所が変わったから知らせると言うことが、添えてあった。 私は返事を書き、最近は歌を忘れたカナリアになってしまい、パソコンに夢中になっていることをしたためた。それが、この3年間の一番大きな変化だった。 いつも彼女が心配してくれた私の老親の近況にも触れた。そういうことに経験豊富な彼女からは、何かと、いろいろなアドバイスももらったのだった。 友達になることはやさしい。しかし、友達でいることは難しい。 自分がひとに誠実であることは出来る。しかし、相手に同じものを求めることは出来ない。 そういうものに絶望したとき、むしろ寛大な気持ちで相手を受け入れることが出来るのかもしれない。 そして、私はまだ、その域に達していない。 2002年05月20日 19時08分42秒
窓際のあじさいのつぼみが膨らんできた。雨が続いて、開花を急いでいるような気がする。 この家に引っ越してきた頃、庭のあじさいは三カ所あった。 東の道路に面したところに、ブルーのあじさい、西側の玄関の近くに、白と水色、そして南の窓際に紫色の額あじさいがあった。 あじさいには、胸の痛くなる思い出があり、この時期になると、よみがえってきて辛くなる。 10年前に家を建て替えるとき、多すぎる庭木をだいぶ減らし、あじさいも東側にあったブルーのものをあきらめた。 でも、野鳥が落としたのだろうか。いつの間にか、裏庭に、うす紫色のあじさいが育っていて、大きな花を咲かせるほどになった。 去年、6月半ばに、教えてくれる人があって、高幡不動のあじさいを見に行った。 さまざまの色のあじさいが、見事に咲きそろっていて、壮観だった。 日盛りのなか、汗ばむほどだったので、少しばかり居て、帰ってきた。 私は雨の日のあじさいが好きだ。しとどに濡れ、重たく花房をたれている風情が、何とも言えない。 そして、日々、微妙に色が変わり、花の終わりは、無惨に茶色く変色してしまう。 恋のはじめと終わりをこの花に重ねてしまうのは、思い入れが強すぎるだろうか。 2002年05月19日 02時10分50秒
・・・の招待状をもらったので、雨の激しい中を、調布市内のホールへ出かけた。 以前歌を習っていた先生の、教え子たちの発表会である。私は、3年ほど前に、その先生に声楽とシャンソンを習っていたが、両親の介護などで、だんだん行けなくなり、止めてしまった。 そのころ一緒に習っていた人たちが、まだ何人か続けていて、今日の音楽会に出ていた。 継続は力なりと言うが、みな3年の間に歌がずっとうまくなっていて、感心した。楽しそうで羨ましかった。 先生も3曲歌った。普通素人のコンサートは、タダだが、今日は先生が歌う分だけ、1000円というチケット代になっていた。 以前の発表会で、先生がサービスで歌ったことがあり、その時私は、「プロはタダで歌ってはいけません」と先生に言った。 だから、チケット代がわずかでも付いていたことは、良かったと思った。 出演者50人。シャンソン、カンツォーネ、ポップス、映画の主題歌など、中にはほとんどプロに近いような人もいて、なかなか面白かった。 今、私は歌を忘れたカナリアになっているが、嫌いになったわけではない。いや、むしろ以前に増して、歌を愛している。 終わって先生に、招待状のお礼を言った。 また習いに行こうかなどと考えながら、バスに乗って帰った。 2002年05月17日 23時10分40秒
パソコンなどというものに浸るまでは、私は典型的アナログ人間、電話さえもあまり使う方ではなかった。 送り状、礼状、時候の挨拶、葉書や手紙の返事、すべて縦書きの手書き、まめに書くことを良しとし、実行していた。 口下手なせいもあって、電話で人と話すのは苦手だが、手紙なら思ったように書けるので、少々時間がかかっても、書くことにしていた。 それが一変したのは、メールなどというものを使うようになってからである。 早いし、郵便ポストまで行かなくていいし、電話やファックスのように音がしない。ワープロ入力も慣れてしまえば、速さは手書きとあまり変わらないし、読みやすい。 今やすっかりメール党になってしまった。 たまに、手紙を書く段になると、なんだかおっくであるが、もらったものには、必ず返事を書くのを常としている。 これはメールでも変わらない。 「メールに返事なんて出すの?」といった人がいて、こういう人とは、メールのやりとりなんかしたくないと思ったが、この世界は、いちいち返事など出す方がおかしいと聞いて2度ビックリした。 送った方は、届いたかどうかをやはり気にしているのではないだろうか。送信エラーだってあるし、原則返事を期待して送るわけだから、「受け取りました」ぐらいいってもいいんじゃないかと思う。 もちろん、最初からお互い暗黙の決め方がしてある場合は別である。 私は、掲示板を持っているので、書き込みには、どんな些細なものでも、何らかの返事をすることにしている。「今日は」と言われたら、やはり「こんにちは」とか「有り難う」とか、言ってあげたい。黙っているのは、話しかけられて、そっぽを向いているのと同じだからだ。 反応がないことこそ、寂しいものはないからである。 ホームページを持ってから、私は関心のあるテーマを掲げたサイトをよく訪問する。 気に入ったページに会ったときは、掲示板にも一言挨拶しておく。たいていは、何か反応もあって、お返しにこちらに来てくれたりする。 でも、せっかく掲示板がありながら、1昼夜経っても、メッセージに対して何にもリアクションがないことがある。その場合、私は潔く自分のメッセージを削除してしまう。 いろいろ見ていると、千客万来のサイトというのは、管理者が実によく、反応している。もちろん、お客が多いから内容が良いというわけではないが、来てくれた人に対する細やかな態度が、見ている人に伝わるのだと思う。 あまり宣伝もしてない私のホームページ、それでもいつの間にかカウンターの数が2000に近づいた。 顔も名前も存じ上げないお客さんたち、こころから嬉しく思っています。今後ともどうかよろしく。 2002年05月17日 01時02分24秒
夕べ遅く、テレビでアルピニスト、野口健が出ていた。「親の顔」とかいう番組で、今まで見たことがなかった。 私が見たかったのは、アルピニストの親の方である。 まず父親が登場したところで、私は寝かかっていた連れ合いを起こして、一緒にテレビの前に坐った。連れあいの後輩であり、学生合唱団では、私も一緒だった。 団のマネージャーをやり、在学中に外交官試験に受かって、周囲をビックリさせた。学年がちょっと下なので、ほとんど話したことはないが、明るい好青年だった印象がある。 その彼が、今すっかり有名になってしまった息子の父として、テレビに登場している。 ロンドンにいたとき、連れ合いが仕事でローマに行き、そこでイタリア公使していた彼にあった。その時「下の息子がロンドンの学校にいる」という話をしていて、それが昨日のアルピニストだったのだ。 「ずいぶん苦労したんだなあ」と連れ合いがいった。家庭的な事情や子育ての苦労など、テレビで聞くまでは、あまり知らなかった。 昨年、彼が帰国したとき、歓迎のパーテイーがあって、久しぶりに会った。「息子の方が有名になっちゃって・・」と苦笑していたことを思い出す。 「マスコミは、何かあると手のひらを返したようになるから、・・」といっていたのが印象的だった。 このところ、我が家にヒキガエルが登場している。どうやら前から庭のどこかに棲んでいたらしく、夜、玄関の前にじっとしているのを連れ合いが見つけた。「大事にしようね」と話している。犬、猫の嫌いな我が家だが、自然の生き物は好きで、野鳥や虫などは、歓迎している。 2002年05月14日 09時14分37秒
先日、新国立劇場で、オペラ「トスカ」を見た。 この中で歌われる「星も光りぬ」や、表題の、visi d’arteは、独立した歌としても、演奏会で歌われる有名なアリアである。 今回はイタリアのノルマ・ファンティーニがトスカを演じた。とらわれの身になった恋人を思って歌う歌。 近松などの世話物も、恋に殉じた男女の道行きが出てくるが、タブーの多い時代でこそ、恋に命を懸ける喜びがあったわけで、今のように、何にも枷がなくなってしまうと、真剣な恋はしにくいのではないだろうか。 もちろん、親の反対で結婚できないという例も、皆無ではないようだが、原則的に、結婚は年齢を満たしていれば本人の自由、親の反対ぐらいで成り立たないものは、はじめから大したものではあるまい。 また恋と結婚はイコールではないから、人はいつでも誰とでも恋をする。それが現実にどういう形をとるかは、別の問題。 若い頃、私は恋愛至上主義者だった。まだ、それほど自由な時代ではなかったから、命を懸ける恋というのも、ありそうな気がした。 身近に駆け落ち結婚した人もいるし、恋のために、自分の人生を変えた人もいる。 何かを得ることは、それ以上に何かを失うこと。そうした覚悟のない恋は、たぶん恋の名に値しないのだろう。恋に名を借りた戯れ言か遊び。 でも、人生の終わりが近づいてくると、命までは懸けられないが、傷つかない程度に恋の香りを楽しむ器用な人がいても、不思議ではないかもしれない。 時々、そんな例を見聞きする。 恋故に命を懸けし時代あり枷なき今の恋は薄味(初出 桃李歌壇「和歌連作の部屋」) 2002年05月13日 13時21分38秒
年一回の同期会。といっても学生時代の混声合唱団の方である。 私は中学から大学まで女ばかりの学校で育ったので、同世代の男性とのつきあいは、この合唱団ぐらいしかなかった。 子育てや仕事で忙しい頃は、会合も途絶え勝ちになっていたが、最近次々とリタイアしたり、子どもがみな独立して家を離れると、昔の仲間たちとの交流が復活し、こうして再会して、現役の頃の歌を歌うのである。 このところ集まる人数も定着して、平均20人ほど。 今日は、昔の愛唱曲集の中からリクエストで歌ったり、当時のコンダクターの指導で、少し練習したり、2時間ほど愉しみ、あとは立食パーティーになった。 メンバーの中には、カンボジアに学校を作るというNGOの団体の理事をしている人、趣味で習い始めたシャンソンが、趣味の域を超えて、プロになってしまった人、合唱をずっと続けて、自分で団を作った人、地域のボランティア活動に忙しい人、リタイアを期に、日本書紀を研究し始めた人、さまざま。 親の介護の問題もある。これから10年ぐらいが、好きなことを何とかやれる時期かもしれない。若いと思っていても、そろそろ体力の衰えを、自覚し始めた点で共通していた。 むかし男の人たちの胸を惑わせた美女も、それほどでない人も、今になるとさほどの差もなく、それぞれが、人格を持った美しさを備えているのも、若いときと違うことだった。 2002年05月12日 02時20分34秒
連休の頃は晴天続きで、暑いほどの陽気だったのに、ここ2,3日冬に戻ったかのような薄寒である。 今日も出かけるとき、かなりの降りだったので、コートを着て出た。でも、なぜか5月過ぎて、冬のコートを着るのもヘンだし、第一、もう着ることもないだろうと、クリーニングに出したり、衣装箱にしまったりして、薄手のダスターコートしかないのである。 今日は、久しぶりに座の連句に誘われ、大久保の俳句文学館まで。 出席者10人が、2席に分かれて歌仙を愉しんだ。この会は、結社の中のベテラン揃いで運営していて、私のところまで、声がかかることは、いままでなかったが、最近、会員数が減ったり、老齢化して出られない人が増えたりで、すこし門戸を広げているらしい。 昨年一度誘われ、その時は躊躇するものがあって、辞退してしまったが、今回は喜んで参加させてもらった。 誘ってくれるということをありがたいと思い、よほどのことがない限り、気持ちよく応じる方がいいと、思い直したからである。 正統的な式目を重んじる連句のやり方は、最近砕けた付け合いになれている私には、ほどほどに緊張感があって、よい座であった。 あらためて教わったことの一つか二つあり、感謝の気持ちで帰ってきた。 終日雨。初夏の雨を、若葉雨などという。 思い出すのは、去年のちょうど今頃。ひどい降りの中を、小田急線鶴川まで、所用を兼ねての連句に参加し、「若葉雨」という季語を使った誰かの発句で、三吟に加えさせてもらったこと。 その時一緒に行ったひとのことや、帰りの電車の時間がかかって、パソコン教室に遅れたことなど思い出す。1年は短いようで、長い。 2002年05月11日 00時21分26秒
このところ、ホームページを毎日のように更新している。 今日一つアップして、23ページになった。そのほかに連句用のボード2つ、ゲスト用掲示板、この日記帳を付けてある。 シナリオ、エッセイ、短歌、詩、などの自作のもの、共同の連句作品、とにぎやかにはなったが、果たして誰が読んでいるのだろうか。 今年になってホームページを立ち上げ、その後何度か失敗して、やり直したりしながら、この一月ばかりは順調に更新を重ねている。アクセス数は、今日で1700を超えた。 自分で開けてみるのが3分の1くらいあるとしても、少ない数ではない人たちが、クリックしているわけだが、その割には、ゲストブックに書き込む人はあまりいないので、いったいどんな人が、見たり読んだりしてるのだろうと、いささか気になる。 実生活で知っている人には、ほとんど知らせてないので、アクセスするのは、知らない人が大部分だと思う。 それは私のホームページの目的にかなっているわけだが、反応がないのも、少し物足りない。 でも、これは、私の机の引き出しみたいなものだから、自分でのぞいて、ほくそ笑んでいればいいわけである。 リンクも原則しないことにしているが、お気に入りのもの2,3,引かせていただいている。 おかげで、私の項目にないものを、見ることが出来る。 「俳句術」は、初心者向け俳句講座だが、実作をボードで見てもらえるので、得難いサイトだと思う。私が見ているだけではもったいないので、リンクさせてもらった。 「和歌連作」は、私も参加しているサイトの中のもの、連句に似ているが、前の人の短歌の響きを受けて次の短歌を付けるもので、いずれも臨場感が取り柄、ネットの利点を十分生かしている。 インターネットは、出来たものを見せるだけでなく、見た人が参加できることが、必要なようだ。はじめは誰も見なくていいと思っていたが、このごろは、せっかく一生懸命作っているのだから、なるべく多くの人に見てもらいたいと思うようにもなっている。 ただし、実生活上の天敵のような人が、私には居る。その人たちは別である。 2002年05月08日 01時25分24秒
黄金週間が終わった。 日本の祝日は、欧米に比べて多い。連れ合いの計算によると、土、日含め1年の3分の1は休んでいることになるという。 休みが多いということは、悪いことではない。しかし、国民が一斉に休む日としては、多すぎるのではないか。 土日のほかに、正月と、お盆の前後ぐらいで十分であろう。あとは、それぞれが好きなときに、休めるようにすればいいのである。 なにも、全員で同じことをすることはあるまい。 一斉に休むから、どこへ行っても混雑し、あまり愉快ではない。 憲法記念日など、休みにしなくても、記念日は記念日でいいではないか。 でも、祝日を休みにしないと、有給休暇が取りにくいからという反論が出てきそうである。また、学校などは、バラバラで休むわけに行かないかもしれない。でも、最近のように、いくつかの祝日を、全部月曜日に続けてしまったら、それも困るのではないだろうか。 ある大学の先生が言うには、月曜日の授業時間が減って、カリキュラムに支障が出るという。 時間あたりの講師などは、収入も減るだろうし、年間計画も立てにくいのではないだろうか。 しかし、「みんなで渡れば怖くない」のが日本人、みんなで一斉に休むのでないと、安心して休めないのかもしれない。 2002年05月06日 23時50分55秒
この6日間ほど、私の両親が家に来ていた。 5年前にうちに引っ越してきて、3年暮らしたが、いろいろな事情で別のところに移り、さらに昨年夏からいまのケア付きマンションに移り、24時間介護体制の中で過ごしている。 母はまだしっかりしているが、父の方は、体は元気だが、4次元の世界に住んでいて、ケアが必要である。 一度家に来たいと母が言うので、この連休に来てもらった。 2年ぶりに来て、母は感慨深いものがあったらしかった。両親の居た部屋は、ほとんど手を付けずに残してあるし、置いていったものも、そのままにしてある。また戻ってくることがあると、予想していたわけではないが、急いで片づける必要もなかったのである。 母は家にくると、気になっていたらしいものを片づけたり捨てたりして、過ごした。「アラ、ここにあったわ」というので、何かと思ったら啄木の歌集だった。父は、短歌を趣味としていたが、母はあまり関心がないように思っていたので、意外だった。 父は、もはや短歌を読んだり作ったりすることは、出来なくなっている。5年前は、まだ歌会に出たりしていて、結社誌も講読していた。 その父が持っていたおびただしい書物は、全部とは行かなかったが、うちに運び込んだままになっている。短歌関係の雑誌や歌集、もう開くことはないと思いながら捨てられずにいる。 「本の重みで、家が沈むよ」と、連れ合いに言われながら、私は必死に、それらを守ってきたのだった。 この6日間、父は前から居たように自然に家にとけこんで、静かに過ごした。ここが、かつて3年間住んだところであることを、覚えては居ないようだったが、意識のどこかで、蘇っていたようにも思えた。 今日、帰る時間になって、車で送っていった。 向こうに着くと、ケアハウスのみんなが迎えてくれた。「ここは来たことがあるなあ」と父が言った。 私たちは、母の入れたお茶を飲んで帰ってきた。車を運転しながら連れ合いが「結局、どういう形が一番いいんだろうね」と言った。 うちにいた3年間、私の連れ合いも、いろいろな思いをしたのである。これという答えのないまま、私たちは、それぞれ、親の老いと、自分たちとの関わりを反芻したのだった。 2002年05月06日 02時45分21秒
おとといから今日まで、連休の谷間の三日間だった。昨日も、おとといも雨まじりの薄ら寒い日だったが、今日はよく晴れ、庭の緑もとりわけよく映り、「風薫る」という感じの一日となった。 両親の分も合わせて4人分の洗濯をした。洗濯機を回すこと3回、庭先のテラス、2階のベランダまで、物干し竿を満艦飾にして、昼頃やっと終わった。 1時に、市内の友人と図書館で待ち合わせ、6月の連句関係の行事の案内状を発送する作業をした。100通ばかりの郵便物を、そのまま郵便局に持っていき、「料金別納」扱いにしてもらって、完了。 友人と別れ、私は図書館に戻り、短歌関係書、車谷長吉の新刊本など借り、スーパーで食料品を買って帰宅。 留守中に、夫が父を散歩に連れて行ってくれたらしい。ケアハウスに行ってから、あまり散歩させてもらってないと見え、歩く力が弱くなっているそうだ。「やっぱり、確実に年取ってるね」と夫が言う。2年前まで、一緒に住んでいたときは、外に出たいために、時々迷子になり、探し回ったりしたが、もはや、そうしたことはない。眠っている時間が長くなり、そうやって、自然に別の世界へ、近づいているのかもしれぬ。 母の方は、台所で、ちょこちょこ何か作ったり、父の世話をしたり、よく動いている。耳の遠いことをのぞけば、まだまだしっかりしている。食卓では、母の話が中心になっている。 残り時間がどのくらいあるか判らないが、今日の日のような穏やかな毎日を過ごさせてあげたい。 母作る五目サラダや風薫る 2002年05月03日 00時28分07秒
今日から5月、よい季節である。でも、昨日から天気が崩れ、少しうすら寒いのは残念。 昨日から私の両親が来ている。 92歳と89歳が、この連休を過ごしに来た。 今日は、ヘルパーの介助で、父の入浴をすませたところ。 介護用の椅子を買いに行ったり、この際カビの生えかけた風呂の蓋も、新しい檜に取り替えた。 まだ寝たきりではないが、やはり高齢の親の介護は、それほど簡単ではない。 でも、介護ということが、社会の当たり前の風景になって、人の力を借りることが、以前よりたやすくできるようになってきたのは、嬉しいことではある。 2年前まで住んでいた家に来て、父も母もホッとしている。どこか、記憶に残っているのだろう。 あちこち体の不調を訴えながら、父の身の回りの世話を欠かさない母、少し姿が見えないと、母を捜し回る父、お互いの存在が、生きる力となっている。 子どもがしてやれることは、ほんのわずかであることを、しみじみ感じる。 2002年05月01日 17時52分21秒
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