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今の季節は秋と冬の境目、天気が良ければTシャツ一枚でもいいが、朝晩は、寒さを感じるときもある。 今日は、少し生暖かいようだ。 俳句の講座に行く。 今日は、教室になっている都内の大学近くを吟行して、俳句5句を作るという課題である。 今の時期、5時になるともう暗い。 大学近辺には桜並木があり、土手に上れば電車の線路が見下ろせる。 少し早めに家を出た。 夕方から出かけるときは、困るのが食事で、外で一人で食べるのも、あまり好きではないので、家を出るとき、軽く何かつまんで行く。 講座が終わるといつも、一緒に行っている友人と、コーヒーくらいは飲むが、帰りの時間も気になるので、あまりゆっくりもできない。 今日は、朝、昼の食事時間がずれたので、牛乳を温め、バナナを一本食べて家を出た。 駅に着き、そこで、浮かんだ句を2句。 追い越せる片減り靴や冬の駅 冬駅や携帯音のあちこちに 歩道を渡るところで一句。 四つの谷在りし町とや冬木立 学校に行く途中の桜並木は、今はもちろん花はなく、枯れ木だが、土手が続いているので階段を上る。 人気がなく、もう暗いのでちょっと怖い。 ところが、人気がないのではなく、いくつかのベンチには、カップルが座っていて、蠢いているのだった。 これでは、覗きになってしまうではないか。 しかも、一人で歩いてくる男がいる。 慌てて下に降りた。 そこで一句。 カップルのほか誰も居ず冬の土手 気持ちを取り直して、空を見ると学校の尖った屋根に十字架が見える。 そこで一句。 尖塔の影浮かび来る冬の月 凡句ばかりだが、五句出来たのでそのまま校内に入り、図書館に入る。 原稿用紙に清書し、短冊にそのうちの三句をしたためて、教室に向かった。 私は、連句はやるが俳句は全く初心者である。 先生のところに集まった俳句を、皆で選句するが、私の句は、一人か二人選ぶくらいがやっとである。 前回は、二句を選んでくれた人があったが、今回は片べり靴を採ってくれた人だけ。 あとで気が付いたが、「冬の」という季語だけしか使わなかったのは、いかにも芸がなかった。 厳密にはまだ秋なので、秋の季語でも良かったし、冬の季語なら、日短か 暮れ早し 息白し 帰り花 など、幾らでもあったのに・・。 先生の評は、月の句に○が付いていた。 友人と帰りながら、「私たちはきっと連句的発想で作るから、俳句の人たちとは、ちょっと発想が違うのかしらね」と話した。 連句の発句は、あとに付けると言うことを考えて作るが、俳句は、一句でぴたりと完結しなければならない。 それに、あまり主観が入ってはいけないらしく、ほかの人の句は、皆、スケッチである。 俳句はもともと俳諧、今で言う連句の発句が独立して出来たのだが、一句で言い切ると言うことが、人に受けて広がりを見せたのであろう。 その点で言うと、連句は伝統的な式目があり、共同作品だから、ある意味で難しい。 でも、一旦この魅力にとりつかれると、やめられなくなる。 いまの私の精神生活は、これが中心である。 でも、人に勧めようと思わない。 自分が愉しければいいのである。 連句を広め、結社を発展させようとする人たちの気持ちも、わからないではないが、私自身は、それとは離れたところにいたいと思う。 自分の感性を大事にし、句の質を高め、その中で自由に遊ぶ。 受け入れてくれる人たちと良い付き合いをしたい。 所詮人間がやっていること、愉しいことばかりでないこともある。 この一年、つらいこともあった。 しかし、それも乗り越えた。 人に媚びず、自分を保って、精神の貴族を目指したい。 今はしみじみそう思っている。
この1年ばかり、多摩川を越えて神奈川県に入ったところで、月に一度、連句の座に参加している。 私を入れて6人くらいの小さなグループ。 メンバーは、60代後半から70代半ばまでの男の人3人に、50代終わりから60代前半の女性3人。 男性メンバーと女性メンバーとの間に、平均10年ほどの差があることになるが、これは結構いい組み合わせである。 リーダー格は、地域で俳句を教えている男の人。 私以外は、みなそこの教室の生徒だから、彼を「先生」と呼ぶ。 私は連句の習慣で、彼も含めてみんなをファーストネームで呼んでいる。 私が行く前は、私と同じ結社の人が連句を教えに行っていたらしい。 何かの都合で行けなくなり、私に代わりに来て欲しいと話があった。 たまたま、そこの「先生」が、私のインターネット連句に参加していたので、ネットが取り持つ縁である。 「教えるなんてことは出来ませんし、そんな柄じゃありませんから、皆さんと一緒に愉しむということで参加させてください」といい、それから行き始めて、この9月で1年過ぎたところである。 「先生」は、連句もかなりできるのだが、「私は俳句がメインですから」と言って、連句に関しては、一応私を立ててくれている。 午後から4時間足らずで一巻仕上げなければならないので、あまり長い物は出来ないが、前に来ていた人が、懇切丁寧に教えていたらしく、その成果が出て、皆、上手になっている。 お陰で私は、いつも愉しませて貰っている。 連句が終わると、近くの喫茶店などに寄って、お茶など飲みながら、雑談を愉しみ、散会する。 このときに聞く、男の人たちの話が実に面白い。 一人は、戦争に行ったことのある人、「毎日何千人という人が、バタバタ死んでいくんだから・・・」と、実際の体験談を聞かせてくれる。 もうひとりは、戦後、アメリカの駐留軍の施設で働いたことがあって、その時の、ヤクザまがいの体験や、危ない眼にあった話が出てきて、まるで映画を見ているようで面白い。 どちらも、映画やマスコミの世界で長く仕事をしてきた。 残る一人は、終戦当時思春期、それまでの軍国少年としての教育が、急に変わって混乱した経験を持つ。 それに引き替え、女性のうち一番年かさの私が、やっとかすかに戦争の記憶が残っている程度、ほかのふたりは、物心付いてからは平和の中で成長してきている。 その落差は大きいが、その人達が、同じ場所で、文芸の遊びをしながら、それを通じて、お互いの経験を追体験し、知識を深めていくことが、非常に尊いことだと、最近思うようになった。 若い人が物を知らないのは当然である。 経験がないのだから。 あと20年もすれば、もう戦争を知らない人たちが、日本の人口のほとんどを占めることになる。 些細なことでもいい。 戦争の体験を持つ人は、いろいろな機会に、それを、伝えるべきである。 想像力の欠如は怖いことなのだから。 最近、つくづくそういう感を深くしている。
昨日はよい天気だった。 こんな晴れた日に、どこかへ出かけたいと思いながら、雑事に紛れて出そびれてしまった。 昼下がり、夫と散歩がてら買い物に行こうと、支度をしていたら、夫のほうに電話が掛かり、朝から問い合わせていたウインドウズの設定に関することだったので、またパソコンの前にへばりつくことになってしまった。 仕方ないので、私は一人で、郵便局に手紙を出しに行き、図書館で本を借り、帰りにスーパーに行くと、用事が終わって来ていた夫とばったり。 スーパーの買い物は、重いからと、迎えに来たのだった。 夫婦二人の生活は、こんな風に過ぎていくことが多い。 連休も、家にいる限りは普段の日常と変わらない。 新聞が休刊になったりして、はじめて気がつくこともある。 今日は少し雨が降っている。 息子の妻の誕生日が近いので、今日あたり4人で一緒にどこか、食事にでも行かないかと昨日電話したら、二人とも、すでに予定があるというので、来週に延ばすことにした。 いつも仕事に追いまくられて、忙しい。 若いし、仕事があるのはいいことかも知れないが、ゆっくりする時間がなくて、何だかかわいそうである。 夫は友人の展覧会に行くと行って出かけた。 私は、懸案になっている文集作りをしなければならないのだが、なかなか手を付ける気分にならない。 自分が引き受けたことではあるが、熱が入らないのである。 ついつい、ほかのことを優先してしまう。 「そろそろ・・・」と遠慮がちに催促が来たが、「4,5日中に」と言いながら、もう2週間経っている。 フロッピーに入っているものを移して、編集し、表紙を作って印刷、それを閉じるだけのことで、昨年は10月半ばには出来ていた。 今年は足の故障を口実に怠けていて、時間が経てば経つほど気が入らないのである。 おととい知った昔の友達の状況が、その後わかった。 脳をやられていて、どのくらい快復するかわからないと言う。 原因も、詳しい経過も、聞いていないが、「アクシデント」と言っているので、急なことだったに違いない。 昔歌った歌をハミングしたら、歌詞を覚えていて、小さな声で歌ったという話を聞いて、泣けてしまった。 碁を趣味としていたその人は、碁盤を見ると反応を示すという。 「会話にならない会話をして、帰ってきました」と友人のメールにあった。 私には、ただ祈ることしかできないのだ。
学生時代の混声合唱団で、ひそかに慕う人がいた。 年は2年上だったが、彼は浪人しているので、同学年だった。 鶴のように痩せて、背の高い彼は、高いテノールの美声を持ち、私は、まずその声に心を惹かれた。 私はアルトなので、彼の声の傍で歌うと、よくハモるような気がして、好きだった。 鉄分が足りない体質らしく、よく貧血を起こし、時々学校も休むらしかった。 私は、彼と団の楽譜係をしていたが、半年の任期中、一緒に仕事をしたことは、ほとんどなかった。 当時は、今のようなコピーマシンはない。 楽譜は原紙に鉄筆で切り、謄写版で刷るのである。 すべて手作業だった。 彼が、貧血を起こすと、私は、誰かを代わりに頼んで、部室で謄写印刷をするのである。 時には、たった一人で、謄写版のインクと格闘せねばならなかった。 体の弱い彼を、恨めしく思ったものである。 しかし、3年生になる頃から、彼は、見違えるほどたくましくなり、時にラジカルな理論をふっかけて、みんなを煙に巻いたりした。 夏の合宿の帰りに、彼を含む数人のグループで、キャンプに行ったことも懐かしい。 やはり彼を含む混声6人で、中世のマドリガルを一時夢中になって歌ったこともあった。 彼は学生運動にも熱心で、デモなどにもよく行っていたようである。 私はノンポリだったので、政治的なことには疎く、関心もなかったが、60年安保で樺美智子さんが死んだときには、さすがに黙っていられなくなり、教育実習中の現場から、国会へのデモに参加した。 それを知った彼から、葉書が来た。 無関心な態度をやめたことはいいことだと書かれ、最後に「くわしいことは、いつか一緒になれたときに話しましょう」と結んであった。 それに、私は返事をすることが出来なかった。 すでに、別の人と将来を約束していたからである。 卒業して2年後、私は約束していた人と結婚、その半年後に、彼は私の友人と結婚した。 共にマドリガルを歌っていた仲間だった。 互いに別の人生を歩むことになったが、彼は、いつもわたしの心のどこかに存在していて、いつも気になる人だった。 同窓会で年に一度会うくらいだが、私は彼の傍で、その声に合わせて歌うのが、今でも好きである。 その彼が、今、快復できるかどうかわからない状態で、病院のベッドにいる。 その妻である私の友人からのメールで知った。 突然倒れ、救急救命センターで10週間、一般病棟に移って5週間になると言う。 友人は、心の強い人である。 繊細で、どこか不安定な夫を庇って、これまで過ごしてきた。 余程のことでも、人に頼らず、切り抜ける精神力がある。 しかし、今回は、さすがに、こたえているようだ。 でも、今まで誰にも言わず耐えてきた。 「何かお役に立つことがあるかしら」とメールを送ると、「ありがとう」と涙に暮れたらしい調子の返事があった。 そっとしておいて、と言う彼女に、私は何もしてあげられない。 それ以上に、意識があるのかどうかわからない状態で、病床にある人に、何も出来ないでいる。 「いつかきっと、また一緒に歌える日が来ることを信じて、快復を祈ってます」と返事を書きながら、わたしの心も涙でいっぱいになった。
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