年が明けたと思ったら、もう今日は晦。 一年の12分の1が過ぎたわけである。 この辺で時間が止まってくれないだろうか、神様! 時間だけは、どんな人にとっても平等にある。 そして、限りがあるのも、同じである。 夫と私は、同じ年。あちらは早生まれだが、途中から学年が一緒になったので、同じ年と考えている。 「二人合わせて百歳ね」なんて言ってから、大分経った。 もうそんなことは言わない。 でも、私たちより更に年かさの人から見たら「若くていいわね」と言うことになるのだろうから、いまが一番良いときと思って日々過ごすしかない。 新しく借りた有料サーバーに、サイトを作り、今日アップした。 いろいろ高度な設定が出来るようだが、私の技術が伴わないので、とりあえずは、1ページ作り、形を付けた。 あとは、少しずつコンテンツを移動させればいい。 リンクを全部直さねばならないので、手間が掛かる。 いままでのホームページを、閉鎖することも考えたが、折角あるスペースを捨てるのはもったいないので、別の形で生かすことにした。 掲示板は、新しい方に、別の物を借りたが、日記は、このまま使うことにした。 サイトの構想をあれこれ考えているうちに、夜も更けた。 明日は、下町での連句会。 今年はじめての会なので、行くことにする。 新しいボード連句の付け合いも、明日から始まる。
寒さが増すとともに、風邪が猛威をふるいはじめ、周辺では、風邪に掛かった話が多い。 25日の日曜日から、夫も風邪の症状が出始め、インフルエンザの予防注射はしてあるものの、予防は予防に過ぎないので、もし掛かった場合は比較的軽く済むという意味でしかないから、月曜日、医者に行くことになった。 私は、免疫力が弱いので、夫はまず私に移してはいけないと言う心配をするのである。 いま、インフルエンザかどうかと言う判定は、簡単だそうである。 「あとで電話するから」と言って、夫はかかりつけの医者のところに行った。 頃合いになって電話があり、「普通の風邪だったよ」という。 そして薬を貰って帰ってきた。 「風邪ひきの患者で満員だったよ。君、なるべく行かない方がいいよ。待っている間に、風邪を背負い込むから」という。 私にも、過去に、病院の待合室で、何度か風邪を貰った経験がある。 熱はないし、ただの風邪というので、安心したのか、夫は、横になるでもなく、普通の1日を送った。 ところが、その夜から、咳がひどくなり、少し微熱もあるらしい。 7度5分というので、高いというわけでないが、途端に病人の気分になる。 そこで昨日、私は医者のところに、咳の薬をもらいにいった。 夫が行ったときは、まだ咳がなかったので、その薬は入っていなかったのである。 布団カバーやタオルを取り替え、部屋を掃除して、埃を吸い取った。 消化の良い物を調理し、薬を飲み忘れないよう気を付けた。 最近、私は自分のことに気を取られて、あまり夫のことには、気を使っていなかった。 ちょっと反省し、久しぶりに、良い奥さんになって、夫の世話をした。 今日は、熱も下がり、食べるものさえあれば大丈夫だというので、おもちを焼けばすぐ食べられるよう、雑煮の鍋をたっぷり仕込んで、連句の会に行った。 その会でも、いつも来るはずの人が3人来ていなかった。 終わるといつも、飲みに行くメンバーである。 「主人が風邪だから、すぐに帰るわ」というと、あとの人たちも、帰ることになった。 「若い人と違うわ。やっぱりたまにはこんなこともあるわね」と話しながら・・。 今日は、風邪だけでなく、コンピューターウイルスも、猛威をふるっていたらしい。 「ウイルスバスターを、3回もアップデートしたよ」と夫が言う。 次々とウイルスが出て、ウイルス駆除が後を追っかけている状態のようだ。 私も、早速、ウイルスバスターの、更新をした。 今日連句を休んだ友人から電話。 日曜日から風邪気味だったが、咳がひどく、体が痛いという。 「インフルエンザだといけないから、医者に行った方がいいわよ」と言ったが、生姜湯を飲んで寝ているという。 友人は一人暮らしである。 「夜中に、もし、救急車を呼ぶようなことがあったらどうしようかと思うわ」と、心細げである。 いつも元気で、華やかな彼女だけに、「あなたは、面倒を見る人がいて、それが支えになってるのよ」といった言葉が、心に残った。
音楽会は午後からだった。 先週、ある人からチケットを貰い、もう一人誘って3人で行くことになっていた。 しかし、そのあとで、貰った相手と、感情的行き違いがあって、私はしばらく、その人と一緒に行動したくない気分になっていた。 昨日も、同じ場にいながら、私は会釈しただけで、そのあとの2次会にも行かず、帰ってきた。 ほかの人から「今日は早く帰ってしまって、体の具合でも悪かったんですか「と言うメールが入った。 「体はぴんぴんしてましたけど、心が健康でなかったので・・」と返信した。 何でも、まあまあで流してしまって、人の気持ちに斟酌しない彼女と、ひとつ引っかかると、それを解決しなければ前に進めない私とは、時々、こうしたことがある。 私は、同性の友人は大事にしたいので、こだわりや誤解をそのままにして、ごまかしたまま付き合いたくない。 もちろん、友達のカテゴリーに入らないような人は、そのままおさらばして、2度と付き合わねばいいのである。 そうやって、縁切り状態になった人が、この2年ばかりの間に2人ほどいる。 しかし、友達として、これからも付き合いたいと思い、相手に希望を繋ごうとするなら、やはり、言うべき事は言っておきたい。 そうやって、送ったメールの返事が来て、1週間経っていた。 私の言わんとすることがちゃんと伝わったかどうかは定かでないが、向こうは、自分に非があったことを認めている。 音楽会をすっぽかしたい気もあったが、それをすれば、向こうにこだわりが残るだろう。 待ち合わせて一緒に行くか、会場で会うか、そんな打ち合わせも、お互いしないままである。 考えていたが、時間になったので、家を出た。 チケットはめいめいが持っているので、会場にはいることは出来るし、自由席だから、広い会場で、お互いに見つけられるかどうかわからないが、それでもかまわないと思った。 電車の中で、ケータイが鳴った。 彼女だと言うことはわかったが、電源を切った。 10分前に会場に着き、席を物色していたら、一緒に約束したもう一人が、すでに座っている。 隣に座り、しばらくすると、件の彼女がやってきた。 「ああ、良かった、見つかって」といいながら、私の隣に座った。 「早めに家を出たから、もしかしたら連絡貰ったかと思ったんだけど・・」というと、「お家に電話したら、ご主人が出て、もう出ましたって言うから・・」と彼女は言った。 お互い、先日のことや、メールの遣り取りについては、一言もいわず、一緒に音楽を鑑賞した。 終わって外に出ると、「お茶でも飲みましょうか」と言うことになり、3人で、駅の近くのコーヒーショップに入った。 30分ほど、音楽会の感想や、雑談をして、駅で別れた。 彼女とは、数日後にまた顔を合わせる機会がある。 「じゃ、それまで、元気でね」というと、彼女も笑顔で答えた。 場所柄をわきまえず、人の人格に関わるようなことを、冗談めかして言ったので、私は怒ったのだが、彼女に悪意はないのである。 たくらみや、イジワルもしたことがない。 こちらが解った上で付き合えばいいのである。 もう一度だけ、赦そうと思った。
今週から衛星放送でヒチコック特集をやっていて、気に入ったものを見ている。 きょうは「めまい」。 母の顔を見に行ったり買い物をしたりで、気が付いたら、放映時間が迫っていて、慌ててバスに乗る。 一杯飲みながら歌謡番組を見ようとしていた夫に断って、チャンネルを切り替え、セーフ。 「めまい」は、学生時代に見たが、キム・ノヴァックが、とても美しく撮れていたので、印象に残っている。 ヒチコック作品としては、あまりヒットしなかったらしいが、私はとても好きな作品である。 ジェームス・スチュワート扮する休職中の刑事が、友人に頼まれてその妻をひそかに見張る。 実は、友人は妻殺しをたくらんでいて、それを実行するカモフラージュのために、必要だったのである。 もちろんそんなことは露知らず、友人の妻の尾行を続けるうちに、彼女と恋に堕ちてしまう。 そして逢い引きの途中で、彼女は、教会の屋上から身を投げるのだが、それを目撃しながら防ぐことが出来ず、彼は、神経を病む。 彼には、高所恐怖症という弱点があって、屋上に上っていく彼女を追いながら、追いつけなかったのである。 友人は外国に引っ越し、時が経って、街中を歩いていた刑事は、死んだ友人の妻そっくりの女に出逢う。 恋人の面影を追うように、刑事はその女に近づき、死んだ恋人と同じ服を着せ、そのように振る舞って欲しいと頼む。 抵抗する彼女も、次第に彼の言う通りになる。 実は、この女が、お金で、友人に頼まれて、その妻の替え玉になって妻殺しに一役買っていたのだった。 刑事が友人の妻だと思っていたのは、実は、共犯のこの女で、妻は友人の手によって殺されていた。 屋上に駆け上がった女と入れ違いに、待ちかまえた友人がすでに死んでいた妻の体を、投げ落としたのだった。 女が不用意に持っていたペンダントから、刑事は、真相を知る。 自分が愛していたのは、そんな女だったのかと、愕然とする。 女の方も、実は彼を愛していたのだが、お金には勝てなかったのだった。 現場で彼女を問いつめているうちに、誤って女が屋上から落ちて、そこで映画は終わる。 ミステリアスな影を持つ女を、キム・ノヴァックが演じ、悪役でありながら、観客を引きつけてしまう役どころが、よくはまっていた。 ミステリーの仕掛けとしては、それ程手の込んだ物ではない。 キム・ノヴァックの美しさと魅力を、最大の武器とした映画。 キムの映画の中では、これと、デビュー作の「ピクニック」、それに「遭うときはいつも他人」の三作が好きだ。 今朝母に電話したら、正月明けに家の中で転んだらしい。 幸い骨折はしなかった代わりに、そのあとめまいに襲われ、つらかったというので、午後から行ってみた。 もうめまいは収まって、今日などは天気がいいので、お風呂に入り、気持ちが良かったと話していた。 母は、めまいが持病なのである。 帰ってから「めまい」という映画を見るとは、何とも妙な偶然だった。
大寒やソプラノ低くさらふ声 みづき この句を発句に連句を巻き、さるところで入選した。 この句には、発想を引き出された短歌がある。 浅間山荘事件で死刑判決を受け、獄中にいる坂口弘は、いつからか短歌を詠むようになり、一冊の歌集を出した。 その中に、面会に来た女性が、ひくいソプラノで、彼に「奈良山」を歌って聴かせたという内容の歌があった。 正確に覚えていないので、引用できないが、私はその歌を詠んで、涙が止まらなかった。 連合赤軍の犯した事件は、革命という大義名分のために、多くの罪なき人に危害を加え、また、些細なことで仲間達を次々リンチによって命を奪った、許し難い犯罪であった。 坂口は、その幹部であり、中心的存在在であったことから、いまの法律における最高刑を科せられても仕方ないと思う。 しかし、獄中で犯した罪の大きさにおののき、手に掛けた仲間の霊に夜ごと夢をみる彼の心は、通常の人間である。 その苦しみの中から生まれた短歌は、ほとんどが事件に主題を取ってあり、その相克の深さが痛ましい。 その中で、「奈良山」の歌は、穏やかな安らぎを感じさせられるが、それだけに、むしろ痛ましさを感じる。 面会に来た女性は恋人だろうか。 その彼女が、看守の見守る中で、低い声で、「奈良山」を歌う。 ひと恋ふは哀しきものと奈良山のもと下り来つつ耐え難かりき 聴いている坂口は、どんな気持ちだったのだろう。 死刑が確定すると、いっさいの発表手段を奪われるそうだ。 彼が、まだ獄中で歌を作っているかどうかは知らない。 死刑が実行された話も聞かないから、まだ、獄中にいるのであろう。 1日として安らかな日はないに違いない。 近づいてくる死への足音を待つ気持ち。 これ以上残酷なことはないような気がする。 今日は大寒の入り。 昨日とは打ってかわって、一日中、ものすごく寒かった。 母のところに行こうと思っていたが、取りやめた。 またきっと、暖かい日もあるだろうから、そのときにする。 夫は会合があって出かけ、遅く帰ってきたが、こんな寒いときに、よく夜中近くまで飲み歩いていられるものだと思う。 深夜にタクシーで帰り、そのまま玄関先で亡くなった人を知っている。 こんな寒いときに、夜遅くまで飲み、寒い戸外に出たときが危ないそうである。 心筋梗塞を起こしたりするのだろう。 新しいサーバーの設定案内が来た。 ホームページを、移す研究をしなければ・・。
今年は12月に、合唱のステージに上ることになっている。 練習開始は4月からだが、少し歌から遠ざかっていたので、声をトレーニングしたいと思い、今月から朗読の講座に週に一度、通うことにした。 今日はその一回目。 教室は、駅の向こう側。 自転車で15分だが、風に当たると喉を冷やすので、バスで行った。 「朗読」と言うより、「語り」と言った方が正確だが、平家物語を舞台で語ることに打ち込んでいる女優さんが講師である。 行ってみると、生徒は10人ほど。 昔、視覚障害者のために、朗読(というより音訳という言葉がふさわしい)のボランティアをしたことがあり、そのときは、本を感情輸入せず、正確に読むことが要求された。 標準アクセントで、書いてあることを残らず読む。 会話体も、ヘンな芝居をせず、文章として読むのである。 今回の講座は、それと違って、読む人の解釈、とらえ方で語ることが主である。 そうはいっても、まずは、発声、滑舌、姿勢、呼吸の仕方が基礎なので、その基本練習から始まった。 これは、以前受けた練習と共通する。 早口言葉の復唱から始まり、文章の緩急の練習のために「平家物語」の一節を読む。 この練習はとても面白く、大いに興奮した。 一人ずつ、半ページほどを順番に読み、講師のコメントが入る。 それから、宮沢賢治の「座敷ぼっこ」の読み。 2時間が短く感じられた。 久しぶりにお腹から声を出して、いい気持ちだった。 10人のうち、新人が3人。 他の人たちは、1年前から続けているらしい。 「読んでみたい材料があったら、それも取り上げますよ」という。 いずれ様子を見て、樋口一葉や、詩の読み方を習いたい。 終わると五時。 いつも終わってから30分ほど、先生を囲んでお茶を飲むと言うが、今日はまっすぐ帰ってきた。 次回が楽しみである。
友人が夢中で読んでいるので、共通の話題のためにと、野次馬根性で読み始めた「ダーム・ギャラント」。 都内の図書館から取り寄せて貰った物であるが、途中まで読んで、あまりにくだらないので、もう沢山という気になり、3日間で、返してしまった。 艶書と言っても、似たような話を、これでもかこれでもかと、繰り返しているだけ。 ロマンもなければ、本当の意味でのエロティシズムもない。 この本が、バルザックやラ・ファイエットに影響を与えたと言うが、ホントかいなと思う。 こういう本があるのを知ったと言うだけが取り柄である。 この本のひとつの逸話から、河野多恵子が「後日の話」という小説を書いたというので、それも読んでみたが、こちらの方が余程面白かった。 しかし、いずれも、私好みではない。 私が今まで読んだ中で、最大の恋愛書だと思うのは、「アベラールとエロイーズ」である。 12世紀はじめ頃のフランスの哲学者アベラールと、彼の愛人であり後に妻となったエロイーズの間に交わされた往復書簡集。 ふたりは、はじめ師弟の間柄だったが、すぐに恋愛関係になり、やがて不幸な出来事によって、間を引き裂かれ、別々の修道院にはいる。 10数年後、アベラールが友人に当てて送った、生涯の物語を書いた書簡が、エロイーズの手に渡り、それに在りし日の恋愛感情を蘇らせた彼女が返事を送ったことで、ふたりの間に、手紙の遣り取りが始まる。 その12通の書簡集である。 私がこれを読んだのは、20歳の時。 大学3年の時であった。 合唱仲間のある男性が、この本を読んでいたく感激したことを聞き、早速買って読んでみたのである。 12世紀はじめと言えば、日本は平安末期から鎌倉時代に入る頃。 同じ頃に、海の向こうでは、こんな激しい愛の物語があったのかと、ショックを受けたことを覚えている。 今もその本は手元にあるが、岩波文庫で、旧仮名で書かれてある。 アベラールとエロイーズが俗世の恋愛関係にあったのはわずか3年。 その後は両者は、共に修道院で神に仕える身となり、往復書簡を取り交わすだけで、一度も会ったことはなかった。 特に、17歳でアベラールと出会い、彼との愛に生きたエロイーズの、真剣で一途な手紙は感動的である。 肉の愛の思い出と、神への愛とのはざまにあって、苦しむ痛ましい叫びが、生々しく語られ、心を打つ。 彼女は20歳からの人生を、修道院で、アベラールの指示に従って、敬虔な祈りの中で送り、アベラールの死後、その遺体を引き取って、遺言された修道院に埋葬したのである。 いまもう一度読んでみると、若い頃によくわからなかったことが、気づかされる。 往復書簡は、後半は基督教の教義や哲学的考察が主になっていて、なかなか難しい。 どういう本かと訊かれても、一口には説明できない。 書名は知っていたが読んでないと言う友人に貸した。 彼女が艶書と比べて、どんな感想を持つか、興味がある。 「アベラールとエロイーズ」。 これ以上の恋愛書を、他に知らない。
今日は私の所属する文芸集団の新年会があった。 都心のホテルで、5,6人ずつのテーブルに分かれ、総勢80くらいの、賑やかな会だった。 その中での、式典や、催しも滞りなく終わり、有志が近くの飲み屋に流れて、また話が弾んだ。 そこで帰れば良かったのだが、地方から日帰りで来た男の人が、長距離バスに乗るまで、だいぶん時間があるというので、女性6人にもう一人男性が加わって、コーヒーショップでお茶を飲むことにした。 女性達は、いつも顔を合わせて、忌憚ないことを言い合っているメンバーである。 顔をつきあわせて、なにやら難しい話をはじめた男性ふたりを横目に、女性達は、気ままなことを言い合っていた。 そこで、私は、聞き捨てならないことを言われたのである。 言ったのは、私と最近よく付き合っている人で、彼女は、親しさのあまり、うっかり口を滑らせたという感じで言ったのだった。 そのこと自体に悪意はない。 彼女は、わたしが2年前にいたグループの人たちと、最近よく付き合っている。 そのグループのある人と行き違いがあって、私はそこをやめたのだが、それは当事者同士にしかわからないことである。 私がやめるに至った直接のきっかけには、私に悪意を持つ女性が関わっている。 彼女の言うことだけを鵜呑みにした人が、一方的に、私をやめるべく、仕向けたのであった。 彼女は私がやめると、邪魔者が居なくなったとばかり、それまで欠席勝ちだったグループに復帰し、いまは中心的存在になって活躍している。 他の人たちは、この件には何も関知していないし、何故突然、わたしがいなくなったかも、正確には知らない筈である。 関わった人たちにとっては、自分たちを正当化するためには、居なくなった人間を悪者にした方が簡単だから、そんな風に言っているのだろう。 やめた私が、出かけていって、異議を唱えることは、ないからである。 一人よりは、二人の方が力があるし、やめた人間より残った方に分がある。 欠席裁判で、どんな風に言われているのか、こちらには全くわからないことである。 しかし、そのグループの代表者をはじめ、何人かの人たちは、よく事情がわからぬまま、いまでも変わらずに、年賀状をくれたり、一緒に飲みに行ったり、私のネット連句に参加してくれている。 グループの中では私が悪者にされていても、実際に付き合う私は、全くイメージが違うはずだから、戸惑っていることもあるだろう。 わたしのいる集団と、そちらのグループとは、共通の文芸を志していて、どこかで接点があるからである。 共通の場で、仲違いしている人たちが居た場合、他の人たちはどうしたらいいのか、大変、困っていることは想像できる。 どちらとも付き合わねばならないが、片方から聞いたことを、もう片方に喋るのは、仁義に反するし、どちらの味方も出来ないからである。 そんな状態のまま、2年近く経つ。 一度は、件の相手から、修復したいような話もあったが、それがあまりにも一方的で、自分本位なので、私のほうから断り、それきりになっている。 私とは和解したいが、問題の女性の機嫌を損ねたくないから、グループには戻って欲しくない、内緒で縒りを戻したいと言わんばかりの、そんな手前勝手な提案に、こちらが応じると思っているのだろうか。 虫が良すぎるし、人をバカにするにもほどがある。 私にとっては、思い出すだに不快なことだったし、いまでも、その人達を赦しては居ないが、もうそこからすでに前に歩き始めている。 喫茶店で私に聞き捨てならないことを言ったひとは、そうした正確な経緯も知らず、そちらから生半可に聞いたことを種にして「この人は、xxグループから出入り禁止になったのよ」と言ったのであった。 その場では、聞き流したが、その言葉が引っかかった。 事情を知らない人たちのまえで、そんなことを言ってほしくなかった。 考えた挙げ句、メールを送った。 メールはマイナスのことには使わない主義だが、「そんなこと言ったかしら」と、あとでとぼけてしまわれるおそれがあるので、敢えてメールにしたのである。 「一方的な情報で、人の人格に関わることを言われては困ります。人を批判する以上は、正確なことを調べてから言ってください」と書いた。 彼女からすぐ返事が来て、場所柄を考えずに、余計なことを言って、申し訳なかったと書いてあった。 しかし、何故私にそんなことを言ったのか、その根拠になったのは、どういうことからなのかという、肝心なことについては何も書かれていなかった。 しかし、正直な人である。 相手方から聞いた話を鵜呑みにしていますと、白状したようなものだからだ。 彼女は、自分自身が人からいろいろなことを言われても、すぐに忘れてしまえる人なので、ほかの人も皆そうだと思っているのだろう。 糠に釘というのは、このことである。 「節操がない」と、いつか私は彼女に言ったことがある。 いままでにも、同じようなことが2度あった。 繰り返すのは、ことを軽々しく考えて、反省していない証拠である。 腹を立てつつも、話題の豊富な彼女と居ると愉しいので、赦してきたのだった。 こういう人には、こちらも同じ付き合い方をすればいいのだろうが、私にはそんな器用なことが出来ず、時にグサッと来てしまうのである。 あなたはピュアな人ですね」と、何人かの人に言われたが、褒め言葉と思わない。 生き方が下手だと、言いたいのであろう。 女友達。 異性よりは本当のことを言ってくれるし、信用できると思っていたい。 しかし、裏切るのも、女友達である。
私の住む市では、小ホールで、年に3回ほど、古い名画を特集で取り上げる。 昨年秋は、アメリカ映画と落語を組み合わせての催しだったが、今回は3月まで月に一度、戦前戦後の日本映画を上映する。 今日はその一回目、山中貞雄の映画2本だった。 「丹下左膳余話・百万両の壺」と「人情紙風船」。 江戸末期の庶民を対象とするもので、どちらもはじめて見る作品だが、いたく感動してしまった。 丹下左膳は、大河内伝次郎主演。1935年のもの。 百万両のありかを地図に塗り込んだという、こけざるの壺をめぐって、繰り広げられる、喜劇タッチの話。 壺を探す侍、知らずに屑屋から貰った壺に金魚を買う子ども、その子どもを我が子のように面倒見る左前と女房。 江戸の風俗や庶民の暮らしが出てきて、大変面白く、終わると一斉に拍手がわいたほど。 観客はみな地元の、中高年が主である。 懐かしい俳優や、よく知ったような生活の場面が出てくると、愉しいのである。 2本目の「人情紙風船」は、ぐっと変わって、静かでもの悲しい、長屋の人間模様。 この映画は、題名だけは何度かきいていた。 長屋に住む浪人。 父親を亡くしてから、知り合いの武士を頼るが、足元を見た相手は、取り合わない。 その話をタテに、同じ長屋の庶民達のそれぞれの世界がヨコになって、人間模様を描き出す。 最後は、浪人が妻もろとも心中して終わるが、しっとりと人情の機微を描いて、傑作だと思った。 山中貞雄が28歳の作品。 完成直後に赤紙が来て、中国戦線に従軍。翌年現地の野戦病院で死ぬ。 「陸軍歩兵伍長としては男子の本懐。されど映画監督山中貞雄としては『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにはあらず」という遺書を残している。 山中は、映画会に入ってから死ぬまでに、26本の映画を撮ったが、現存するのは、わずか3本という。 いずれも23歳から28歳までの作品である。 小津安二郎とは、中国戦線で再会しているが、山中も生きていれば、小津に負けずとも劣らぬ映画作品を残したであろう。 戦争は、こうした優れた才能も、犠牲にしているのである。
私は典型的アナログ人間、まさかインターネットの世界に入り込むとは、3年前まで全く考えてみなかった。 20年近く前に、日本語ワープロが普及し始め、私が仕事していた日本語教育の現場でも、機械に強い人は、使い始めていたが、まだ個人で持つには高価だったため、オフィスや学校、物書きの人たち以外には、家に置いている人は少なかったと思う。 しかし、それから数年後に、個人用の小型のワープロが出始めて、みるみる広がった。 私も10万円也を投じて、買ってみたが、その頃のワープロは窓が小さく、2,3行の表示がやっとだったので、手で書いた方が早いと言うことになり、すぐに納戸行きになってしまった。 パソコンは、すでに企業や学校、病院で使われていたが、個人レベルにはなっていなかったと思う。 それが爆発的に普及し始めたのは、1995年のウインドウズ95が出たときであろうか。 機械には、関心のない私も、街中の電気屋で、大きな垂れ幕が下がっていたのを見ている。 パソコンスクールもどんどん出来て、機械に強い若い人たちは、すぐにインターネットの世界に入っていったようだし、個人でも何とか買える値段に近づいてきたせいもあって、パソコンの販路も広がっていったのであろう。 私は人ごとのように見ていたが、夫がウインドウズ95のノートパソコンを買い、メールなどを使い始めるようになってから、はじめて、パソコンを身近に見ることになった。 夫はその前に、ワープロを買って、私と同じく挫折していたので、とてもパソコンまでは行かないだろうと、思っていたのである。 文書を入力してプリントアウトしてもらったり、夫のメールから、私の関係者に、代わりに連絡メールを送ってもらったりしているうちに、「君も自分でやりなさい」と言うことになったのだった。 夫がパソコンを98型に買い換え、古くなった95型を貰い受けて、私もメールの送受信を覚えた。 そのうちに、インターネットにも参入、今度は私専用の机とパソコンを買い、とうとうホームページを立ち上げるところまで行ってしまったのだから、わからないものだ。 この正月で、丸2年経ったが、サイトの運営も、どうやら、自力で出来るようになり、ソフトの使い方も、幾らか馴れた。 この頃になって、今まで増やすだけだったページを、少しコンパクトにし、あちこちのサーバーに分散して表示してあるサイトを、2つくらいにまとめようかと、考え始めている。 昨年のある時期、「天敵」の襲来を集中的に受けた。 愛情籠めて作っているホームページを、土足で陵辱されたような気がした。 ネットと現実とを混同するタイプの人に掛かると、コワイ。 一度は、そのために、サイトごと引っ越した。 しかし、執念深く検索で追いかけてきたのである。 それとなく警告し、アクセス解析を付けてから、やっと、収まったようだが、また来る可能性はある。 有料だが比較的安く、しっかりしているサーバーを見つけ、今、サイトの引っ越しを検討中である。
先日ある男性から「○○さん、ずいぶん太りましたね。それじゃあ、膝が痛くなるはずですよ」と、遠慮のないことを言われてしまった。 年上で、日ごろやさしくしてくれている人だから、腹は立たないが、やっぱりそうかと、ちょっとショックである。 昨年夏、足の骨を折って、40日ほどギブスを嵌めて、ジッとしていたので、その間に4キロほど目方が増えてしまい、そのまま戻らないのである。 連句の座に出る機会が多いので、その都度外での飲み食いが加わり、確実に体重が増えてくる。 そこで、少しでも、脂肪を減らす為に、暇なときは、日に一度は、30分ほど歩くことにした。 昼前に夫が駅まで歩いて、そのあたりにある図書館に行くと言って出かけた。 2時間後に帰ってきたので、おそい昼食を一緒に食べ、今度は私が歩く番である。 買い物を兼ねて、などと思うと、運動にならないので、純粋に歩くだけ。 手紙と振り込みの用事で郵便局に寄ったほかは、ひたすら歩くことにした。 30メートル道路の広い歩行者通路を行く。 少し早足で30分。 丁度いいところに、幹線道路に面して、本屋があったので、ウオーキングとしての歩きはそこで止め、本屋に入る。 雑誌、新刊書をざっと眺め、パソコンの本を見て、ふと気づいた棚に、「冬のソナタ」を特集した雑誌があったので、手に取って見てしまう。 昨年、2度に渡って放映された20回のドラマ。 ペ・ヨンジュンの写真に見とれる。 マフラーの結び方が話題になったが、図解して出ていたので、頭に入れる。 1000円出して、本を買うところまでは行かない。 セキュリティに関する本を買い、帰途につく。 いつの間にか日が暮れかけている。 たまたま毛糸の長いマフラーをしてきていたので、歩きながらさっそく「ペ・ヨンジュン結び」をしてみる。 昔、「君の名は」が映画になったとき、岸恵子のマフラーの巻き方が評判になり、ドラマのヒロインの名を取って「真知子巻き」として、大いに流行った。 今度の「ペ・ヨンジュン巻き」はどうだろうか。 携帯で夫に連絡。 お風呂を沸かしてくれるように頼む。 本屋から歩いて家まで30分。 一度歩いただけで、目方が減るわけではないが、運動した気分になる。 昨年初め、月に1キロずつ減らすなどと公言したのに、守ることが出来なかったので、今年は人には言わないが、春までに、3キロくらいは減らしたい。 少し風があったものの、寒さは感じないくらい、爽快だった。
池袋の連句会へ。 月に一度、駅近くの喫茶談話室に10数人が集まっての、小連句会。 その会としては今年初である。 13人が3席に分かれての付け合いになった。 昼前から、喫茶店の一隅を占領し、お茶やサンドイッチの昼食を挟んで連句を巻き、早く終わった順に帰る。 そのうちの有志が誘い合わせ、駅近くの多国籍料理屋で、飲みかつ喋って、6時か7時に散会する。 きょうの飲み会メンバーは、いつも来る2人が欠席したので、女性3人、男性2人になった。 連句にまつわる人間模様の、あれやこれやを話題にする。 誰それを巡る5人の女とか、わけありカップルの噂とか、ここだけの話といいながらも、大体は公然の秘密になっているようなことばかりである。 他には口外しないという暗黙の了解の中の話だから、その場だけで済んでしまう。 人間いくつになっても、その種の話はキライではないとみえ、つい、盛り上がってしまうのである。 色っぽい話に縁遠くなっている我々には、話題がある人たちが、半ば羨ましいのである。 風の強い1日。 地元の駅構内の本屋を、少し探索して帰る。 夫は、今朝仕込んであった鍋を肴に、一杯やっているところであった。
連句の先輩から、音楽会の誘いがあった。 その知人の息子の、ピアノリサイタルがあるので、席がガラガラだと困るからと言う。 夜、上野文化会館小ホールに行く。 早めに付いたが、もう席は7割方埋まっていたので、後ろの方に座った。 私と同じように誘われた人たちが、7,8人。 フランス帰りの若きピアニストは、ダイナミックな演奏で、プーランク、ショパン、シューマンを弾いた。 27,8歳の若さ。これからの人である。 暖かい拍手がわいた。 終わって、駅構内のコーヒーショップで、お茶を飲んで帰宅。 音楽会というと、私は声楽に限ってしまうが、たまには、器楽の演奏もいいと思った。 帰ると11時近く。 都心のホールからはやはり遠い。
いつも年末から正月にかけて、我が家に泊まりに来る息子夫婦が、今回はハワイに行って来なかった。 息子の妻の作るおせち料理は食べられなかったが、若いふたりは、海外での正月を愉しく過ごしたらしかったし、夫と私も、それなりにのんびりと静かに過ぎた。 ふるさとに帰る人たちには、正月には、いろいろと計画があるだろうが、親子三代に渡り、すべての親族が東京近辺に集まっている私たちには、正月だからと言って、特別なことはないのである。 それでも、日ごろはお互い忙しく、なかなか一緒の膳を囲む機会も少ないので、年に一度の新年を、そのチャンスにしてきたのだった。 ただ、女の身になると、身内と言っても、大勢の人間が集まるというのは、大変である。 家の中を片づけ、掃除をし、買い物を済ませ、料理の支度をし・・・と言う具合で、最近は、出来合いのおせち料理を頼んだりもするが、やはり多少の準備はしなければならない。 来る方もそれなりに気を使う。 息子の妻は、よく躾の出来た人で、家事能力は私より上なので、彼女の作るおせち料理が、このところ我が家の正月の定番になっているが、ぎりぎりまで会社に行って、やっと休みにはいると、こちらに持ってくる料理の支度をするのは、大変だろうと思う。 「料理は好きですから」と言うが、家に来ても、台所を行ったり来たりで、何だかかわいそうになる。 ハワイに行くと聞いたときは、むしろ、その方が、いいと思った。 遠くに住んでいるのではないので、誕生日や母の日などにかこつけて、また会う機会はあるからだ。 そんなわけで、正月は、久々に夫婦だけの日となった。 今日は、ハワイのビデオも見せたいからと行って、ふたりがやってきた。 ささやかなお土産も持ってきた。 芸能人はじめ、日本人の観光客でいっぱいで、ハイシーズンとて、旅行費用も、ずいぶん高かったようだが、愉しかったらしい。 ただ、雨期にあたっていて、滞在の間、ほとんど雨だったそうだ。 「ホントはもっといい時期に行きたいんですけど、ふたり揃っての休みが、なかなかとれないものですから・・」。 それで、今度のハワイ行きになったという。 息子夫婦は、同じ会社で働いてたが、途中それぞれ転職し、今は別々のところで働いている。 「遅ればせながら・・」と新年の乾杯をし、息子の妻が作ってきた料理を食べて、半日過ごした。 息子の持ってきたビデオを見ると、30年近く前に泊まったホテルが写っていた。 南米からの帰りにアメリカに寄り、更にハワイを経由して帰ってきたのだった。 5月始め、新婚カップルでいっぱいのワイキキ浜辺を歩いたことも、覚えている。 帰りは、ホノルルから東京経由で香港に行くという飛行機に乗った。 息子は、日本人とは見なされず、私もスチュワーデスから中国語で話しかけられた。 日本的な背広を着ていた夫だけが、日本人として対応された。 私はいたずら心を起こして、そのまま通したが、息子は、ショックだったようだ。 英語と中国語で話しかけられても、頑として返事をせず、いよいよ飛行機が日本に着いたとき、スチュウワーデスに大きな声で「さよなら」と声を掛けた。 はじめて発した日本語の言葉だった。 ビックリして絶句したスチュウワーデスの顔が面白かった。 そんなことも思い出す。 それから3年後に、もう一度南米に行った。 現地で息子は中学生になった。 子どもの時に、海外を2度往復して育った息子が、当時のことをどう思っているか、あまり訊いたことはない。 一度だけ、中学生の終わり頃、「僕は外国で、いろいろな人たちを見たから、自分は非行化してはいけないと思っている」という趣のことを言ったことがある。 南米では、貧しくて、街中で物乞いをしている人が沢山いたし、小さな子どもが、靴磨きもしていた。 そんな光景は、多分、息子の心の中に刻み込まれているはずである。 外国帰りと言うことで、理不尽なイジメにも遭っている。 まだ息子には子どもは居ないが、多分、自分が父親になったとき、それらの経験が、どこかで生かされるのだろう。 夕方、明日から仕事だからと言って、息子達は帰っていった。
子どもの頃は、正月に家族や年始に来た親戚の人たちで、必ず百人一首のカルタとりをした。 近所のお兄さん、お姉さんが加わることもあった。 「むすめふさほせ」の札を覚えておくことや、目指す札をとばす技術なども、その人達から教わった。 私が高校を卒業する頃まで、この行事は続いたように思う。 古典の授業には、百人一首の歌が、必ず出てくるし、カルタとりの面白さに加えて、歌の意味を探ることも、興味があった。 読み手に廻るのも好きだった。 札が少なくなると、中央に並んだ何枚かの札を睨んで、皆の目が血走ってくる。 そこを、わざと焦らすようにゆっくりと読み上げる。 百人一首をしないと、正月気分が出なかったものだ。 家庭の中で、カルタとりをしなくなったのはいつからだったろうか。 父の社会的立場が、だんだん忙しくなり、正月にその関係の客が増え、子ども達が大きくなって、外の世界での楽しみが多くなり、交友関係が広がって行ってからであろう。 また、正月の遊びも変わって、カルタ遊びも流行らなくなったのかも知れない。 家には、ずっしりした百人一首があったが、いつの間にか、どこかに行ってしまった。 今日の連句会は、百人一首の賦し物。 百首の歌の言葉を詠み込んで、連句を巻いていくのである。 14人集まり、ベテランの捌きがリードして、4時間ほどで28句の付け合いが終わった。 心あてに寄らばや君の止まり木に 某 いなばの山で三行半書く 私 墨染めの袖にもあるか身八つ口 私 行くも帰るも違ふをのこと 某 花を追ひいくのの道の遠き酔 某 からくれないに立てる陽炎 私 こんな具合であるが、この数年、新年初のこの座での恒例になっている。 終わってから、乾杯すべく、飲み屋に繰り出した。 男5人、女4人が参加、お酒とお喋りを愉しんで帰ってきた。 健康を考えて、飲み会は半減しようと思っていたが、無理である。 ニトログリセリンを持ち歩きつつ、飲み友達との縁を優先することになりそうだ。
今年になって最初の連句会に行く。 もちろんインターネットの連句をやっているので、連句には年末年始に関わりなく接しているが、座での付け合いは、今日が最初である。 ベテランの人たちでやっているこの会に、2年前から時々呼んで貰っている。 今日は6人と5人に分かれて2席。 歌仙である。幸い良い天気で、愉しい座だった。 今日は女性ばかり。 この会にははじめてという人が3人招ばれていて、うちひとりは無断欠席。 主催者側がお弁当も人数分用意して、ちゃんと2度も案内状を出しているというのに、断りの電話もなかった。 その人には、私も、一度、すっぽかされたことがあって、それ以来、絶対声を掛けないが、当人は「アラ、そうでしたっけ」とけろっとしていた。 団塊の世代。 この年代の人には、よくあることである。 礼儀知らず、無責任、無反省、プライバシーの感覚に乏しく、人のアイデアを平気で盗用したりするのも、この年代に多い。 こんなことを言うと、同年代で、きちんとしている人から反発を喰うだろうが、自分の妹を見てもそう思う。 ベビーブームの中で生まれ、常に競争の中で育っているので、自己主張も強い。 この人達と付き合うときは、かなりこちらがソンをすることを覚悟しなければならない。 何年か前の話だが、連句の付け合いについて質問のメールを寄越した人がいた。 私もそれ程連句に詳しいわけでなく、また特に親しい間柄ではなかったが、こちらは調べて、一応きちんと返事した。 それに対して、返礼のメールはなかったものの、大したことではないからと、そのままにしていた。 すると、その人はその連句作品をコンクールに出し、入選した。 知ったのは、入選作品集を偶然見たときである。 それまで、その人から何の知らせもなかった。 私だったら、「おかげさまで」ぐらいは言うだろうと思う。 実際にはお陰様でなくても、それが、普通の礼儀である。 第一、人に物を訊くのに、メール一本で済むと思っているところが、そもそもおかしいのである。 終わればケロッとして、報告もしない。 それこそメール一本で済む話なのに。 「やらずぶったくり」というのかも知れない。 やはりその世代。 何度か似たような経験をして、私はその人とは、こちらからは付き合わないことにした。 若い頃は、全共闘で暴れ回り、古い価値観を破壊していった人たちだから、どこかにその片鱗があるのかも知れない。 連句が終わってから時間があったので、何人かで駅近くの喫茶店に行き、お茶を飲んで帰ってきた。 明日は、また別の連句会がある。 連句の会には、率先して参加することにしているので、今月はあと5回予定している。 連句を追っているうちに、いつのまにか月日が経ってしまうが、行けるうちが花かも知れない。 この分野は平均年齢が高いので、今まで元気に来ていた人が、自分や家族の病疾で、来られなくなったりすることはよくある。 10年前、連句に足を踏み入れたときから、指導的存在の人が2人亡くなった。 その代わり、新しいメンバーも加わっているが、もともとマイナーな文芸なので、実際にやる人は、そう増えない。 連句を広めようと言う人はいて、熱心に新しい人を誘ったりしているが、私は、その点では消極的である。 自分が好きだからと言って、無理に人を誘うことはないと思っている。 ゴルフや麻雀を、いくら勧められてもやらないのと同じで、人が誘ってもダメなのである。 興味があれば、誰から言われなくても、探して入ってくる。 趣味というのは、そういうものである。 連句に多くの時間を割き、出かけていく私を、夫はどう思ってるのか、まともに訊いてみたこともないが、子どもが独立し、自分もリタイアしたからには、女房にも好きなことをさせてもいいと思ってくれているだろう。 そのように勝手に解釈して、せっせと、歳時記の入った鞄を提げて、出かけていく。 行けば、2次会まで付き合って、夕飯の支度は、期待できないことが解っているので、夫は、最初からアテにしないのである。 今日も、夕食に間に合う時間に帰ってきたら、夫の方はさっさと、自分の好きな物をあつらえて、食事を始めたところであった。 歳末から正月にかけて、ふたりでべったり過ごしていたので、夫の方も、うんざりしている。 「明日も連句なの」というと、「どうぞどうぞ」と、明るい返事が返ってきた。
BSで、暮れから小津安二郎の映画作品をやっている。 今日は「戸田家の兄妹」。 主演は、佐分利信と高峰美枝子。 1941年の物だから、出演者はみな若く、今存命の人はほとんどいないかも知れない。 日本が太平洋戦争に突入した年の映画である。 上流社会に属する家庭の主が亡くなり、残された妻、未婚の娘が、兄や姉の家を転々としながら、つらい思いをして過ごす。 お金があっても、どこかに身を寄せなければ生きていけない当時の女性の状況がよくわかり、なかなか興味深い。 満州に行っていた次男が、帰ってきて、母と妹を一緒に連れて行くことになって、終わるが、佐分利信演ずるこの次男は、小津の自画像らしい。 正義感が強く、自分の母や妹につらい思いをさせた兄や姉たちを、激しく非難する。 小津の映画で、似たような家庭の状況が繰り返し描かれているのは、彼自身の体験の投影かも知れない。 高峰美枝子は当時20代初めくらいだろうか。 控えめで美しい令嬢役がはまっていた。 暮れにも、「東京物語」を始め、いくつか放映された。 これらは、小津の晩年のもので、私が小学校高学年から中学生くらいの頃。 父親が映画好きで、幼い子を抱えて外出できなかった母に遠慮して、私をお供に映画館に行ったのである。 お陰で、大人向きの映画を沢山見せて貰った。 小津映画は父の好みだった。 当時は、原節子がきれいだなと言うくらいの印象しかなかったが、今見ると、映画の内容がよくわかって面白い。 明日は何が放映されるのか、毎日楽しみである。
今日から図書館が開館。 暮れに頼んであった本が来たというので、取りに行く。 ブラントーム作、小西茂也訳の「ダーム・ギャラント」。 ”Les Dames Galantes” がフランス語の原題である。 文字通りの意味は「優雅な貴婦人達」とでも言うのだろうか。 しかし、実は別の意味がありそうである。 ひょんなことで、この本を読む羽目になった友人が、暮れの忘年会で話題にしたことから、私も野次馬根性で読んでみることにした。 16世紀に書かれた一種の艶書である。 近くの図書館には置いてないので、都立図書館から取り寄せて貰った。 今にもページが溶けそうに痛みの激しい本で、特別の箱に保護されて届いた。 昭和27年発行だから無理もない。 私の家には、父の代からの、100年近く経った本があるが、大事に扱っているので、いまだに印刷も製本もしっかりしている。 公共の場に置いてあった本は、半世紀保つのが珍しいのかも知れない。 件の本には、フランス王朝期の、上流社会における艶話が、挿絵入りで克明に書かれているようだ。 日本の源氏物語もそうだが、貴族の男女関係というのは、相当乱れていたらしく、それは古今東西を問わないらしい。 友人がそんな本を何故読む羽目になったのか。 私は見たことがないので、間接的に聞いた話だが、どこかのサイトの読書に関するページで、誰かに仕掛けられたらしい。 その周辺の事情の方が、面白いドラマになりそうである。 似たようなことを、別の人から聞いたことがある。 その人は、あるところで、ある男性から、「こんな本がありますよ」と、こっそりメモ書きを渡された。 「性愛対話」という題であった。 どうして?といぶかる彼女に、「ちょっと面白かったものですから」と言われ、地元の図書館に行って、借りてきた。 それぞれ夫があり、妻がある人同士の、恋愛に関する内容で、往復書簡になっている。 すぐに読み終わり、面白い本を教えていただいて有り難うございましたと、鄭重な葉書を出した。 内容に一切触れなかったのは、彼女の賢さである。 それに対して、向こうからは、返事はなかった。 あとになって何かのついでに、どうしてその本を自分にすすめたのか、さりげなく訊いてみると「そんなことがありましたっけ」と、相手は話を逸らせてしまったそうだ。 人に特定の本を薦める時は、何か意味があるか、その本にメッセージを籠める場合である。 彼女は、釈然としない顔で、私に話してくれた。 「試されたのよ。性愛に関する本なんて、普通は女の人に、ストレートには、すすめないわよ。その人は、あなたをからかったのかも知れないし、何か意図があって、あなたの反応を見たかったんじゃない?」と私は言ったが、今度の「ダーム・ギャラント」の一件で、同じようなケースだなあと、思い出した。 前の話と、今回の場合と、両者の間に、知己の関係はないから、私は余計なことは言わないが、教養ある女性に、艶書などすすめる男性というのは、一体どんな人物なのか。 そちらの方に興味がある。 そして、頭のいい彼女は、きっと仕掛けを上回る反応を示して、相手の鼻をあかせることだろう。
今年の三が日は、記録的な暖冬だったとテレビが報じている。 確かに、暖かい正月だった。 昨日は郊外に墓参りに行ったが、昼時だったので、西に向かう車は、太陽の光を受けて熱いほど。 正月に墓参をする人は多くないと見えて、静かな公園墓地で、ゆっくり墓参りをすることが出来た。 ここには、夫の両親と、生まれてまもなく死んだ弟が眠っている。 私は、秋の彼岸に、足の骨折で行けなかったので、いつもは夫と息子夫婦に任せている元日の墓参りを、したかったのである。 道路の選択がよく、渋滞もせずに帰ってくることが出来た。 今日は夫と共に、私の両親のところへ。 ふたりとも、年なりの衰えはあるが、病気もせず、元気である。 午後から出かけ、母の作った煮物などを食べ、5時頃帰ってきた。 「これで、両方の親に挨拶したことになるね」と夫が言った。 明日は息子夫婦もハワイから帰ってくる。 そして、通常の日常が始まる。 大晦日の除夜の鐘から始まった私のネット連句も、順調に進行している。 今年も連句に磨きを掛け、座にはなるべく出席、ネット連句も常時続けて、仲間を増やし、その間連の人付き合いは大事にしたい。 今年最初の連句座は9日の俳句文学館。 10日にも新宿界隈で予定されている。そのあとにも、5回の連句座があり、忙しくなりそうである。 今日までに来た年賀状は、例年より少ないが、結社の主宰が亡くなったので、出さないと言う人が居るからである。 私は、追悼の気持ちはあるにしても、身内ではないので、文面を地味にして通常出す人には出した。 例年来ていて、今年は来なかったという人も、4,5人いる。 人間関係は常に流動的で、移ろいやすい。 この人とは、もう付き合いたくないと思ったら、年賀状から外していくのだろう。 その人達は、私のほうからも外したので、五分五分である。 こちらから外したのに、くれた人には、まだ可能性があると見て、丁寧に返事を出した。
テレビドラマ「向田邦子の恋文」を見る。 久世光彦演出、山口智子主演。 いつも向田邦子の作品を構成あるいは翻案したドラマを、正月作品として久世が作ってきたが、今回は、いつものドラマと違う。 向田の妹が、姉の隠されていた恋の話を書き、それをもとにドラマになっている。 向田は、生涯独身のまま、50歳を過ぎたばかりの若さで、飛行機事故で死んだ。 すぐれたテレビドラマを多く書き、エッセイを出し、そのうち小説を書いて、それが直木賞を取った。 事故にあったのはそれからしばらくのことである。 作家としては脂がのって、上昇気流にあり、これからまだまだ沢山の作品を書き、ドラマも見せてくれるだろうと期待されながらの死であった。 私は向田邦子のドラマも、著作も好きで、昭和50年代半ばまでの「あ・うん」「阿修羅のごとく」「幸福」などのテレビドラマは、今でもよく覚えている。 久世光彦は、彼女が亡くなってから毎年、正月に向田ドラマを放映してきたが、昨年だったかその前だったか、もう向田ドラマは終わりにすると宣言していた。 しかし、向田の妹が書いた本は、いたく久世の心を揺さぶったのか、今回久々のドラマとなった。 いつも出てくる田中裕子は今回登場せず、山口智子になったのは、面差しが似ているからかも知れない。 知的な美貌の主なのに、向田には、恋の噂もなかった。 しかし、実は、彼女には、たったひとり愛した人がいたらしく、ひそかに保存してあった恋文を、死後20年以上経って、その妹が明らかにしたのだった。 ドラマはドラマ、そこに描かれたことがすべて事実そのままではないだろう。 しかし、彼女の一途な恋の深さは、何げないエピソードの積み重ねから、よく伝わってくる。 恋人の母親役で出てくる樹木希林のうまさ。 このドラマが成功しているのは、彼女の存在感が大きい。 病気で半身不随の体になり、妻子と別れて母親と暮らす男。 その男のもとに、仕事の合間を縫って、訪れる邦子。 ある時母親が言う。 「あなたが居なければ、あの子はしっかりすると思う。あなたに頼って、すっかりダメになってるのよ」 呆然とする邦子に母親は言う。 おいとまをいただきますと戸を閉めて出てゆくようにゆかぬなり生は これは斉藤史の歌である。 それを聞きながら邦子は「私もあの人に頼ってるんです。私には必要なんです」という。 母と恋人。 ふたりの女が、ひとりの男にかける愛の形の違いと深さ。 ずしんと来る場面だった。 男は、やがて自ら死を選び、その母と邦子は、共にこの歌を反芻しながら、それぞれの涙を流すのである。 向田邦子が30代初め頃の話だったと言うが、彼女の文章のどこにも、書かれていない。 向田ファンとしては、彼女にそんな体験があって良かったと思う。 そんなことがあったから、あれほど人情の機微に通じたドラマが書けたのであろう。
人の幸不幸、喜びや悲しみに関わりなく、年は巡ってくる。 子どもの頃の1年は長かったような気がするが、ある年からは、時の流れが速い。 10年が束になって、飛んでいく感じである。 考えてみると、イギリスで暮らしたのはついこの間だったような気がするのに、帰国してすでに15年経っている。 この15年は、本当に速かった。 息子が結婚して、すでに10年が過ぎた。 息子が妻を迎え、新しく所帯を構えて家を離れたとき、夫の友人から「これからは、自分の楽しみを持ちなさい」と言われ、連句を勧められた。 心が動いて、連句を始めたが、それも10年経ったことになる。 勧めた友人の方は連句を離れ、いくら誘っても、やろうとしない。 10年の間に、あんなにしっかりしていた両親は老いを深め、夫も私も最近心身の疲れを感じるようになった。 これからの10年は、確実に死に向かっていくのだが、果たして、今の精神生活が保てるかどうか。 考えると恐ろしい。 しかし、私は、元来楽天的なところがあるから、その日その日は、さほど悲惨なことも、不幸な思いをすることなく過ぎていくのだろう。 人との出会いや別れを繰り返しながら、傷ついたり、喜んだりして、また1年経つのだろう。 大晦日の街を歩きながら、そんなことを思った。 その息子夫婦が、暮れからハワイに出かけてしまった。 例年、息子の妻が、おせち料理を拵えて持ってくる。 姑が、料理の下手なことを知っているからである。 暮れまで働いて、やっと時間が出来たところで、素早く買い物と料理作りをし、車に詰め込んで持ってくる。 私には、とても出来ないことなので、いつも感謝して、彼女の才覚に任せている。 息子達は、大晦日から元日の二日まで、我が家で過ごし、そのあと、今度は彼女の実家に泊まりに行く。 今年は、暮れのうちに、「実はハワイに行きたいんだけど・・」という話があり、夫も私も賛成した。 嫁にとって、夫の実家で過ごす正月は、気働きばかりが先に立って、休めないことを知っているので、いつも、かわいそうだと思っていた。 なかなか夫婦で一緒にまとまった休みも取れないので、今回は、いいチャンスだから是非行ってらっしゃいと送り出した。 除夜の鐘の鳴る頃、息子から電話。 向こうの時間だと早朝の五時くらいである。 「気を使ってるんだよ」と夫が言った。 いつもと違って、夫婦ふたりの静かな正月となり、もうおせち料理もいいわねということになって、今朝は、少しばかりの料理を並べて新酒を酌み交わし、午後から義弟の家に出かけた。 例年なら向こうから一族揃ってくるところ、今年はこちらから行くことになった。 私たちは長男長女、正月に親戚が来ることはあっても、自分から行くことは、ほとんどないのである。 快晴とは行かないが、寒さもそれ程でなく、湘南電車に乗って、義弟の家に着いた。 甥夫婦、姪も揃って、迎えてくれた。 飲んだり食べたり、充分愉しんで帰ってきた。 行きも帰りも、電車はすいていて、道路も順調だった。 初詣の帰りらしい人たちにも、会った。 2004年の最初の日は、穏やかに終わりそうである。
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