笙野頼子の小説にこんな題の作品があった。(「居場所がなかった」) 女流文学の中で、笙野頼子、富岡多恵子、古くは尾崎翠などは、多かれ少なかれ、小市民的生活の中で、居心地の悪さを感じているところが共通している。 彼女たちは、文学の神様に魅入られてしまったから、世間的な人付き合いとか、常識とか言う物では、測れない世界で生きて行かねばならないのだ。 ずいぶんつらいことだろうなと想像する。 文学を選ぶと言うことは、そうした覚悟を自分に課したと言うこと。 つらいと思うのは、こちらの勝手な解釈で、これ以上の悦楽はないのかも知れないが・・。 私のようなシロウトが、ブログなんかで、何かを表現したり、訴えたりするのは、彼女たちのようなレベルの話ではないが、これはこれで、結構つらいものがある。 まず私は、物書きを生業としている人間ではなく、生活者である。 家族、知人、友人、そのほか、多くの人と関わっている。 その人たちの、実生活をそこなってはならない。 社会のルールに従い、己の節を曲げず、その日その日の「健康で文化的な」生活を営んでいくことが、一番大事なことである。 小さなこだわりは捨てねばならぬこともあるが、しかし、これだけは譲れないと言うことも、私にとっては大切な事である。 「人」という字は、互いに支え合っている形から出来ている。 だから、自分ひとりでは生きていけない。 だが、人間というのは、なんと、悩ましく、複雑な生き物であろう。 まあまあ健康で、衣食足りていても、どうにもならぬ感情というものがある。 まさに人間は感情の動物なのである。 それがあるからこそ、悲しみも、喜びも、時には争いも、助け合いもあるのであり、いろいろな場面において、人を動かす大きな要素が感情なのではないだろうか。 それは、人種や肌の色や、職業や、経歴とは関係ない。 どんなに貧しく、条件の悪い環境にあっても、人は、感情が損なわれなければ、何とか生きていける。 逆に、外目には、恵まれた、何不自由のない暮らしをしていても、家族の中で阻害されたり、常に心を傷つけられるような環境にいたら、生きていくことは難しくなるかも知れない。 「居場所がない」と感じた時、人はどうするのだろう。 いま、この世の中で起こっている、様々な出来事に対して、私がまず思うのは、そのことである。 家庭の中で、学校で、「居場所がない」と感じている子どもがいたとしたら、何にもましてつらいことだ。 子どもは、ひとりでは生きる手だてを持たないのだから。 そして、生きることの下手な大人にとっても、同じである。 私の親族にも、ひとりそういう人がいて、人への気遣いは人一倍あり、よく気が付き、決して人から阻害されるような性格ではないのに、仕事がうまく行かず、失敗ばかりしている。 多分、決断力とか、人の使い方に、足りない面があるのだろう。 女に生まれれば、きっといい奥さん、お母さんになったであろうに。 こういう人は、しっかりした女性と結婚して、尻に敷かれて生きる方がいいのだが、なかなか理屈通りに行かず、生活感のない、見かけ倒しの女性にばかり惹かれてしまい、私生活も、失敗の連続である。 話を聞くたびに、心が痛むが、彼の人生を変わってあげることも出来ない。 せめて、居場所がないと感じることの、少なくて済むように、祈るしかない。 先日、ネット連句座での、居心地の悪さについて書いた。 主宰が作ってくれた段ボールの隠れ家も、私にとっては、もう住みやすいところではなくなったので、黙って脱出した。 そんなことは、何もなかったかのごとく、新しい人たちが、どんどん参入して、進行中である。 ネットでは、同じ状態を保っていることの方が珍しい。 紙芝居が一枚めくれたごとく、もう、そこに隠れ家があったなんてことも、記憶から消えてしまうだろう。 仮想空間。 ネットの交流とは、そんなものなのだ。 そこに、必要以上の、夢や理想を追ってはいけないのである。
私は自分でも、ネット連句の座を持っているが、管理人というのは、細かな神経を使う。 大体は5人から7人くらいで、連作を愉しむのだが、メンバーはさまざま。 よく顔を合わせる人もいれば、ネットでしか知らない人もいる。 最低、メールアドレスだけは教えて貰うが、そのほかの個人情報にはタッチせず、たとえ身元が分かっていても、他の人には知らせないことにしている。 管理人への信頼感がなければ、ネットの交流は成り立たないし、どこで誰が見ているか分からないのがネットだから、プライバシーには気を使う。 それでも、句の作り方や書き方には、人柄が現れるので、そのうちには、「この人は誰さんだな」ということが、うすうす分かるが、実際の場で顔を合わせても、お互い詮索せず、知らん顔しているのが礼儀である。 自主的に名乗った場合は、その人の責任だから、それはほっておく。 勝手に、交流が始まったら、どうぞご自由に、私の方からは、メンバーの身元は明かしません、と言うことである。 連句を嗜む人に、基本的に悪人は居ないから、今までの処、問題になるようなこともなく、過ぎている。 いつも管理人ばかりでは、気疲れするので、私も、他人様のネット連句には、いくつか参加している。 余計な気遣いはないし、無責任でいられるので、楽しい。 その連句座の運営のことまで考えず、自分の句作りに専念できる。 自分の座では、常に全体を把握する目がなければならないし、メンバーが不公平感を持たないよう、細部に渡って、バランスを考えたりするが、よその座では、自由に遊べる。 ただ、私はどうもひねたところがあるらしく、ネットの中といえども、人付き合いの下手さが、現れてしまうことがある。 「よい戦争より悪い平和」という言葉があるが、文芸上のことになると、ここだけは譲れないと言う面を、つい、ストレートに出してしまうのである。 ケンカにまではならないが、ちょっと違うなという思いを抱くことがあり、居心地の悪さを感じると、私は、その座から遠のいてしまう。 今参加中のあるネット連句座で、そんな私のために、主宰が、別の座を設けてくれた。 「教室で、マイペースの生徒のために、教師が段ボールの隠れ家を隅に作ってあげたりするでしょう」と言ったのは、皮肉もあるかも知れないが、ユーモアである。 進行中の連句で、ちょっと無理して参加している私を、よく理解しているなと、思った。 その主宰とは、顔見知りの間柄なので、私は、素直に受けとり、ネット上の段ボールの隠れ家で、他の座とは違った連句をするのを楽しみにしていた。 「ここは私との両吟ですが、付けるのは誰でもどうぞ」と主宰が言ったのは、ほかの人たちへの配慮である。(と私は理解した) すでに進行中の連句は、一句一句主宰が捌いていて、その道の先達としての見解を示してくれるが、それとは違う物をイメージしているなと思った。 「どんな成り行きになるか責任を持てないので、あまり近寄らない方がいいですよ」と主宰は付け加え、私の句に、付けてくれた。 長句、短句、長句と続き、次は短句で、こちらが付ける番である。 早速2句出した。 出来が悪ければ、主宰が、何か言うはずである。 ところが、なんと、他の人も、私に続いて、句をどんどん出すではないか。 「誰が付けてもいいですよ」と確かに主宰は言った。 しかし、段ボールの隠れ家にいる、ひねくれ者の私のために、別の座を設けてくれた経過は、みんな分かっている。 私が第三者だったら、そこに入るのは遠慮して、経過を見守るだろう。 進行中の連句があるのだから、そちらで愉しめばいいのである。 わざわざ、訳ありの座に、進入することはない。 中には、「お邪魔では?」と言いながら、句を出した人もいたが、そんなに次々、入ってくる人がいるとは意外であった。 「あまり近寄らない方がいいと言ったんですけどねえ」と言いながら、主宰は、付け句を吟味して、ある句を治定した。 最初に出した私の句は、板の下の方にスクロールされて気づかなかったらしく、吟味の時には、入っていなかった。 後から気づいて、吟味はしてくれたが、正直がっかりした。 両吟というのは、二人でする連句のことである。 本当は、メールか何かで、非公開でやればいいのかも知れない。 みんなでやっている連句座の中に、それを設けたのは、オーソドックスに捌く連句と、また違った趣向をねらったのかも知れない。 その中で、いろいろ実験的な試みをしながら、見せ物にしてみようと言う、遊びの気持ちがあったのだろう。 ただ、それに応えるには、私の付け句は、期待はずれであり、ほかに出した人の句の方に、いい物があったと言うことなのだろう。 理屈ではよく分かる。 でも、それなら、そのように言ってくれればいいではないか。 そして、ちゃんと経過があって、私のために作ってくれた座(と思ったのは私の一方的な思いこみなのだろうか)に、遠慮無くづかづか入り込んで、場所を浚ってしまう人たちに、私は、割り切れない感じを抱いた。 教室で、みんなと上手くやっていけない生徒に、教師が、別の場所を作る。 そっと見守ってくれるのが、クラスメートの優しさではないか。 場所を奪われた生徒は、これからどうしたらいいのか。 多分、二度と、そこには戻らない。
父が亡くなり、葬式が済むと、今度は、墓地の名義変更とか、相続の手続きなどが待っている。 旧民法では、何もかも長男が次ぐ習いだったが、今の民法は、子どもは男女に限らず平等ということになっている。 墓地の名義も、六親等以内の親族、あるいは、三親等以内の姻族と言うことだそうだ。 母と妹たちで話し合った結果、墓地の継承は長女の私ということになり、今日手続きに行った。 まず申請人である私の現住所のある役所で、印鑑証明を取る。 それから都心の本籍地に行き、私の戸籍謄本を取る。 すでに昼の時間は過ぎていたが、そのまま電車に乗って、父の本籍のある別の区へ。 さすがに空腹を感じたが、時間がないので、滅多に入らないファーストフードの店で、コーヒーとピザを食べる。 区役所で、父の戸籍謄本と、父と私の関係が分かる原籍簿からの付票を申請。 昔の戸籍は、戸主の下に、子どもの代まで、ぞろぞろと記入してあったが、今は、夫婦単位のシンプルな物になっているので、結婚したら、子どもは除籍され、それ以前の親子関係を証明するためには、付票が必要なのである。 この付票が意外に時間が掛かり、待たされた。 父の名前の処はすでに、死亡による除籍と記入されている。 終わると3時過ぎ。 昼頃は晴れていた空が、あやしくなり、雨が降り出した。 地下鉄で、都庁に移動。 高層ビルの上の方にある霊園課に行き、名義変更手続きをする。 父の名義の霊園使用許可証、私の印鑑証明書と実印、私の戸籍謄本、父の除籍謄本、親子関係の分かる付票、私が喪主であることを証明する葬儀の費用支払い領収書、それらを付けて、申請書を記入、実印を押す。 印鑑証明書以外の書類原本は、コピーを取って、返してくれた。 名義が変更され、私が墓地の継承者であることを証明する許可証が交付されるのは、2ヶ月後だそうだ。 「それでは遺骨の埋葬に間に合いません」というと、代わりの文書を出してくれた。 午前11時半に家を出て、4つの役所を回り、すべての手続きが終わったのが、午後4時半。 雨はかなりの降りになって、気温も下がってきた。 どこにも寄らず、まっすぐ帰宅の電車に乗る。 自宅のある駅に着いて、やっとホッとした。 買い物を少々して家に帰ると、夫は、入れ違いに外出していた。 食卓に置き手紙。 何かの集まりで出かけたようだ。 そういえば、携帯が何度か鳴っていたが、移動と事務手続きに気を取られて、パスしてしまっていた。 グズグズしていたら、一日では済まなかったかも知れない手続き。 スムースに運んでよかった。 それにしても、戸籍だの、印鑑証明だの、人が死ぬと言うことは、簡単な話ではないのだなと、実感した。 相続の手続きは、妹がすることになっている。 こちらは、もっと大変。 9年前、父の妹である私の叔母が亡くなった時、やはり相続の手続きがあった。 叔母は生涯独身だったので、亡くなると、きょうだいが後始末するのである。 もう高齢で手続きが出来ない父に代わって、同居して居たわたしと夫とで、その手続きをした。 そのときは、日本のあちこちに相続人が生存していたので、手続きが煩雑になることを予想して、弁護士に頼んだ。 夫はまだ現役で、忙しかったし、私ひとりの手には負えそうもなっからである。 しかし、相続人である父の兄弟たちが、みな、徳の高い人たちだったため、何のトラブルもなく、済んだ。 弁護士がビックリするくらいだった。 そのうちのふたりは、もう他界している。 次の世代である私たちはどうか。 弁護士を頼むほどのことはなさそうだが・・。 電車と徒歩で移動した一日。 さすがに疲れた。
昨日は、急な誘いで、吟行へ。 場所はさる公園だが、家からバスで20分ほどのところ。 天気も良さそうだし、主宰が、文芸上の先輩なので、久しぶりの再会も愉しみに出かけた。 最寄り駅に集合。 私ははじめての参加だが、ほかの人たちはそのグループの常連である。 昨日は、男性4人、女性3人。 初対面の人が二人いたが、みな、いい感じですぐうち解けた。 地元在住の人が、案内役で、まず公園を一周。 花見時はまるで銀座通りのような人出になるが、昨日は、通常の休日の風情。 一面みどりで、まさに新緑である。 大道芸に興じる人、ござを敷いて、手作りのアクセサリを売る人、子ども連れの家族など、久しぶりの晴天なので、賑やかだった。 大きな池には、足こぎボートが何隻か動いていた。「ちゃんと句材を拾いながら歩いてくださいよ」と言われ、あわてて手帳を取り出す。 あとに句会が待っているのである。 散策の次は、水族館に。 オオサンショウウオをはじめて見た。 水の中の生き物は面白い。 そこから今度は動物園へ。 ここは、子ども連れの家族が沢山来ていた。 昼時だったが、みんなで同じところに入る場所もなさそうなので、それぞれ適当にと言うことになり、私は、朝が遅かったので、食事は後にし、園内を一通りひとりで見て歩いた。 昭和22年に日本に来たという、アジア象「はなこ」に対面。 もうすっかりおばあさんで、歯はほとんど無く、流動食だそうだ。 ハクビシン、やまあらし、日本カモシカ、猿、鳥類と小動物。 種類も数も、上野動物園のように多くないが、ほどほどに生き物の匂いに接することが出来た。 午後になりちょっとお腹もすいたが、園内の売店は、行列ばかり。 そこで、一旦外に出て、駅までの道を歩いていると、途中にクレープの店があったので、バナナクレープを買い、食べながら、公園まで戻った。 往復20分。 日差しがあつかったが、いい運動になった。 二時の集合時間に、また7人が集まり、そこから5,6分の公民館へ。 句会である。 時間を決めて、ひとり6句投句。 苦手な俳句だが、ともかく出した。 時間を決め、選句。 みないい句を出している。 披講。 私の句も、六句のうち五句まで、誰かが選んでくれた。 終わると五時近く。 まだ日は高いが、小さなそば屋に入り、さらに三時間ほど、今度は連句を回しながら、お酒と会話を愉しんだ。 これが一番のご馳走だった。 私は女だし、普段家では飲まないが、気の合う人と、外でお酒を飲むのは好きだ。 限界まで飲んだことがないので分からないが、酒好きの父親のDNAは受け継いでいそうである。 男だったら、きっと夜な夜な、赤い灯、青い灯を求めて、さまよっていたかも知れない。 昨日のメンバーの中にも、私が男だったら、彼と肩を組み、とことん飲んで、人生を語りたいのに、と思う人がいた。 脳髄の休み処や夏木立 風薫る「みなさま堂」のグッズです 尺蠖と象の歩みの規則性 寺の名を持つ街を行く半夏生 初夏の音やをみなのサキソフォン 青蛙水面の光避けてをり
今が一番いい季節のはずなのに、雨模様の日が続く。 今日も午前中は、五月らしい青空が見え、いい風が吹いていたのに、午後から、あやしくなり、とうとう雨になった。 日本の何処かが、早くも梅雨に入ったのだろうか。 年が明けてから、寒さが長く続き、やっと春らしくなったと思ったら、もう五月も終わりである。 いい気候の時期が年々短くなっていくようだ。 外出の予定を止め、終日家で過ごす。 先日、図書館に行った折り、「電車男」があるのを見つけ、借りてきた。 2年ほど前に出た本。 当時ずいぶん話題になったらしいが、読んでいなかった。 遅まきながら読み終わる。 思ったより面白かった。
連句に参加していて、時にイヤな気持ちになることがある。 身体の障害や、特徴を論った言葉を、平気で使う人がいる場合である。 人は、いろいろの特徴を持って生まれてくる。 足の長い人、短い人、色の白い人、黒い人、手が大きい人、小さい人、背の高い人、低い人、エトセトラ・・。 そのことの事実自体をいう言葉は、昔よくあったような、聞き苦しい表現や、明らかに侮蔑の意味を込めて言うのでなければ、聞き過ごせる場合もある。 問題は、たとえば、体の特徴を、揶揄して、笑いものにする言い方に見られるような、言葉の使い手の気持ちである。 先日、ある集まりで、そのような言葉に出くわした。 私は、言葉として存在することは、知っていても、それを言えば、傷つく人がいるだろうと思うような言葉は、使いたくないと思っている。 これは、単に、差別語と一括りされることとは違う。 それを使う人の、言葉に対する感覚のありかた、心の貧しさを思うのである。 連句では、俳諧味があるかどうかと言うことが、表現の大事な要素だが、俳諧というのは、人を貶めたり、揶揄したりすることではない。 「私はそう言う言葉は使いたくない」というと、「ユーモアだからいいじゃないの」という反論があった。 その意見の方が多かったので、それはそのままになった。 後味の悪い座であった。 複数で巻く連句では、少数意見が無視されることはある。 連句を止めたくなるのは、そんな場面に遭遇した時である。 「私は、それが差別語かどうかを、問題にしてるんじゃないの。 捌きがそれでいいと思えば、それで治定すればいい。 言葉に対する感じ方、美意識は、みな違うし、使う人の人間性が、あぶり出されてくるだけのことだから。 ただ、私は使わないと言ってるだけ」とそれだけ言った。 たとえば、人より歩くのが遅い人がいるとする。 健康体で、努力すれば、もっと早く走れる可能性があれば、「遅いわね」というのは、それほど気にしなくてもいいかも知れない。 選べる状況にいる人になら、それも、時には、ユーモアになる。 日本の母親が、こどもに言う言葉で、一番多いのが、「早くしなさい」という言葉だと、聞いたことがある。 これなどは、子どもの可能性を信じているから出てくる親たちの、一つの言い方であろう。 しかし、病気か何かの原因があったり、あるいは、生まれつき、早く走れない状況にある子どもに、それを言うのは、相手を無為に傷つけることになるだろう。 心ある母親なら、決してそんな言葉を口にしない。 大人でも同じだ。 体の特徴を挙げて、それを、からかったり、笑いの対象にするのは、醜いし、なんて、無教養な、心の貧しい人だろうと、私は思ってしまう。 また、体に何かのハンディを負っているからと言って、そのことが直接、その人の性格や人格に影響を及ぼしているかどうかも、判らないことである。 それを、短絡的に結びつけて、決めつける言い方も、私は、きらいである。 判っていても敢えて言及しない美しさというものも、大事にしたい。 国会討論会じゃあるまいし、事実関係を突き詰めることが、いつも正しいわけではない。 おおらかで、人間への愛が底に流れていなければ、文芸の美しさにはほど遠い。 どんなに偉い学者や専門家であっても、私は、愛のない人は、信じない。 中世に生きた一人の貴人が、体が不自由だったかどうかを推測し、分析することに、どんな意味があるというのだろう。 折角愉しんで参加していた座が、白けた結びになってしまったのは、残念なことであった。
このところ、眠れぬ夜が続く。 五月終りの誕生日を待たずに亡くなった父のこと・・。 親不孝したなと言う思いばかり・・。 訊きたいこと、話したいことが、まだまだあったのに。 私は父にとってはじめての子である。 難産だったのに、その日、肝心の父は花見に行って家に居らず、産気づいた母を病院に担ぎ込んだのは、父の長姉である伯母の連れ合いだったという。 「**さんは、花見に酔っぱらってしまってねえ」と言う話を伯母にされるたびに、父はバツの悪そうな顔をした。 一時は、母か私のどちらかが死ぬかもしれないほどの難産だったらしいが、幸い、二人とも助かった。 もしもの時は、母の命を優先することになっていたと言うから、私はひょっとしたら、この世に生まれていなかったことになる。 鉗子分娩だったために、生まれたばかりの私は、馬のような長い顔だったそうだ。 赤ん坊の骨は柔らかいので、数日の後には、丸くなったそうだが、その後遺症か、耳の上の方がちょっとくぼんだようになっているのは、鉗子で挟まれたためである。 髪に隠れているし、言わなければ誰も気づかないが・・。 父が亡くなって、こんなことも思い出した。 ------------------------------------------------------------ 眠れない夜が続いている。 熟睡できないのだ。 亡くなった父が夢枕に立つ。 正義感が強く、厳しかった父。 きょうだいも下の方になると、あまり叱られたことはないらしいが、私は子どもの時、よく父から物差しで叩かれたりした。 父は社会に出る時、小説家になりたいとか、映画監督になりたいという夢を持っていたらしいが、結局、家族の反対で、役人になってしまった。 その代わり、趣味として、生涯、映画と本を愛した。 私は父のお供で、大人の映画も見せて貰った。 私が育つ頃は、映画の黄金時代。 内外の名画が溢れていた頃だった。 父と一緒に見た数々の映画。 帰り道、お互いに感想を言い合ったことも思い出す。 私達夫婦と暮らした三年間。 それも、7,8年前のことになってしまったが、父は、いつも控えめで、娘夫婦に気を使っていたような気がする。 心遣いが足りなかったなあという悔いが、未だに残っている。 親不孝な娘を許してくれるだろうか。
外出の行き帰りに、よく本屋に行く。 何か買う目的があって、立ち寄ることもあるが、たいていは、ぶらっと覗くためである。 新刊書、長く売れているベストセラー、雑誌・・。 家には、親の代からの書物も含め、たくさんの本があるので、なるべく本は買わないことにしているが、今、どんな本が売れているか、話題になっているかを見て歩くのは、楽しいし、世相の変化も判って、面白い。 パソコン関係の雑誌などは、立ち読みで、新しい情報も得られるので、便利だ。 文庫本、新書などは、安いので、興味を引くタイトルの物があると、つい、買ってしまったりするが、読まずに置いておくことが多いので、誘惑に負けないようにしなければならない。 本が売れなくなったとよく言われるが、その割には、本屋にはお客が多い。 みな、私のように、立ち読みか、ウオッチングで済ませる人が多いということだろうか。 私の最寄り駅の構内に、大きな本屋があり、そこへ行くと、見ているだけで楽しい。 売れそうもないような固い本や、岩波の新刊も、たいてい置いてあるし、思わぬ発見をしたりする。 インターネットで、たいていの情報がタダで得られるようになったといっても、やはり、活字で埋まった書物を手にする喜びは、ほかの物には代え難い。 絶版になっていた本が、いつの間にか再刊され、そんな物に出会うと、何もかも忘れて買ってしまうのだ。
学生時代に入っていた合唱団の同期会に行く。 本当は一番いい季節のはずなのに、冬に戻ったような寒い一日。 行きも帰りも雨だった。 参加者18人。 親の介護や、自分自身の病気などで、出て来られない人も何人かいたが、いつも顔を見せている人たちは、大体来ていたし、賑やかに話が弾んだ。 若い時のように声は出ないし、音程もあやしくなっているが、昔唱っていたレパートリーは、なんとかハモった。 1分スピーチが、みな、5分くらいかかって、思いの外、時間を取られてしまったのは、お互い老化現象なのである。 ひとの話は長く感じるのに、自分の番になると、ついつい長くなってしまうのも、特徴。 年に一度の顔合わせだから、近況を聞いても、たいてい帰る頃には忘れてしまう。 立食パーティなので、食べたり飲んだりしながら、いくつかの固まりが出来、話はそれで充分な気がする。 折角だから唱う時間を多くした方がいいのに、と正直思ったが、いざ自分の番になると、やはり5分くらい喋ったようだ。 近況として、父の亡くなった話をした。 あっさりと聞いてくれたのは、もうみんな、もっと早くに親を亡くした人が大半だからである。 自分自身の老いが迫っていて、連れ合いに先立たれたひともいるのだ。 三人の幹事が、毎年開いてくれる会。 昨年、もう発展的解消をしようかという話も出た。 出てくるメンバーは大体決まっているし、元気な人はそれぞれ、仕事や趣味で忙しいし、合唱の同窓会はほかの年次でもやっているので、そちらに合流してもいいのではないかという案である。 しかしやはり、同期の会は得難いので、続けましょうと言うことになり、今年もいつもの場所に顔を合わせた。 午後四時に集まり、九時に解散。 同じ電車に乗る人と、途中まで一緒だった。 今日は、晴れていれば、同期会の前に行くところもあったのだが、寝坊してしまい、慌ただしく出かけるのもイヤなので、そちらはパスした。 もう一日に一つのことだけでいいと思うようになった。 これも、加齢現象であろうか。 することが沢山あって、いつも忙しく、あちこち飛び回る生活をするのを自慢にするひとが、私の時代は結構いた。 リタイアする年になっても、相変わらず、同じような日々を送り、その人たちは、ひとより忙しいと言うことが、未だに誇りなのだ。 今日もそんな人が何人かいた。 若い頃は、「すごいなあ、エネルギーがあるなあ」と感心したものだが、今は、思わない。 なんで、そんなに忙しくなきゃならないのと、冷ややかに見ている。 そう言うタイプのひとは、多分、どんなに時間があっても、足りないのだろう。 死ぬまで、何かに追われて暮らすに違いない。
きょう母のところに行った。 父が死んで早くも10日経ち、ひとり遺された母を気遣って、私と妹二人が、代わる代わる訪れている。 初めのうちは、泊まったりしていたが、部屋にしつらえた檀に、父の遺影と遺骨が安置されているので、母はそれで気持ちが落ち付くらしく、夜も安心して眠れるという。 昔、母の友人が夫を亡くし、遺骨が部屋にある間、気味が悪くて眠れないと言った人がいて、「なんてバチあたりかしら。亡くなったご主人が守ってくれると思えば、心強いはずなのに」と、憤慨していたことがあった。 葬儀いっさいが済み、だんだん通常の生活に戻ると、母は、傍にある遺骨と遺影に向かい、朝に夕に手を合わせ、語りかけているらしい。 ハウスのスタッフが日に何度か見回りに来てくれるので、孤独にもならず、そんな遣り取りのうちに、気持ちも落ち着いてきたようだ。 一人になった時、まだ涙が出たりもするらしいが、人は、大切な人と死別した時、充分に悲しんで、思い切り涙を流すプロセスが必要なのである。 その過程を経ないと、次のステップを踏み出せない。 まだ納骨もあるし、相続の手続きもある。 きょうは、そんな用事もあって、行ってみたのだ。 母の気持ちや雑用との付き合いは、妹たちがやってくれるが、難しいことは、結局私がやることになりそうだ。 私たち夫婦は、両親と同居していた3年間に、出来る限りのことをしたつもりだが、たまにやってくる妹たちには、あまり感謝もされず、批判ばかりされた不快な経験をしている。 同居している人間が、外に居る人間から、悪者扱いされてしまうのは、嫁姑ばかりではない。 昔、「となりの芝生」というテレビドラマがあり、長男夫婦と同居している母親が、よりよい環境を求めて、子どもたちの間を、渡り歩く話だったが、環境は自分が努力して作るものである。 誰かが作ってくれるのではない。 いろいろな過程を経て、母も、分かってきたらしいが、娘たちを、性格と力量に併せて、使い分けるやり方は、変わっていない。 「お父さんのためには、何でもしてあげたい気持ちになったけど、お母さんには、裏切られたからなあ」と、夫は言う。 私たち夫婦と同居すると決め、共に過ごした間、父は、私と夫を信頼し、何一つ不満は言わず、感謝の気持ちを持って接してくれた。 夫も、よくそれに応えてくれた。 でも、私は、もう、母を責める気持ちはない。 自分を守るための、年寄りの知恵なのだと、今は思っている。 きょうも、今後の事務手続きについて、「お母さんが頼みたい人に頼めばいいのよ」と言ってみたが、母は私に期待している。 お墓のこと、諸手続のこと、「お願いね」の一言には重すぎるが、これも長女の宿命、夫に手伝って貰って、やることにした。 妹たちは、母と一緒に泣いたり、慰めたり、私の指示に従って、動いていればいいのである。 「長女は泣いてばかり居られないのよ」と言いたくなる。 でも、やはり一番かわいそうなのは、夫を亡くした母である。 残りの人生を、安心して過ごさせてやりたい。 余談だが、私の年になると、死というのは、遠い話ではなくなる。 夫は毎月、誰かの葬式に行っている。 黒い背広をクリーニングに出すのが、難しいくらいである。 平均寿命から行くと、妻が残る方が多いのかも知れないが、最近は、夫の知り合いでも、妻に先立たれる男性が増えてきた。 「お父さんより1分でも長生きして、見送りたい」と言っていた母は、その通りにつとめを果たした。 私と夫はほぼ同年。 私は、自分が先に逝きたい方である。 遺される側にはなりたくない。 夫の居ない人生を考えただけで、ぞっとする。 だから「長生きしてね」と、夫にはいつも言っている。
父が亡くなって1週間経った。 親族だけの通夜と告別式。 縁のあった人たちの中には、もう高齢や病床にある人もいるので、報せは、子どもと孫、直系の親類に限ったが、父が最後まで世話になったケアハウスのスタッフも、数人、参列してくれた。 地元の葬儀社の手で、手際よく進められる喪の儀式の中で、母も私たちも、涙を流している暇はなかったが、それらの次第に従うことで、直接的な悲しみは、一旦外に措かれた。 本当の悲しみは、むしろこれからであろう。 4日の告別式の後、父の遺体は荼毘に付され、遺骨の壺の中に収まって、母の元に戻ってきた。 それまでの、一連の儀式の中で、私がもっとも心を打たれたのは、ケアハウスの人たちの、別れの姿であった。 そこで暮らす人たちは、多くが、車椅子であったり、杖をついてやっと歩ける人たちであり、いずれも、介護士の介助を受けながら、ハウスの中の一部屋にしつらえた、父の棺に別れを告げに来てくれた。 中には、何故そこに来るのか、よく意味も分からない人もいたかも知れない。 しかし、人が長年培ってきた礼節や人柄は、そうした場合にも、滲み出るものである。 棺の小窓をのぞき込み、長いこと手を合わせながら涙を流した老婦人、小さな声で「さよなら」を言って、瞑目してくれた父と同年配の男の人、そのほかの人たちも、それぞれの作法で、静かに別れをしてくれた。 やがて来る自らの死と重ね合わせても居たのだろうが、美辞麗句を並べるでも、大げさなことをするでもない動作の中に、人の真心が現れていた。 母と、私、末の妹が連れ合い共々、礼を返しながら、自然の涙が溢れるのを禁じ得なかった。 これが本当の、死者との別れの姿だと、感じた。 スタッフたちは、住人たちのケアをする中で、日常的に、人の病苦や死と向き合っている。 その日も、ほかに、2人の「お別れ会」があったらしい。 介護の仕事の中で、時間を調節して、仕事着のままで、手を合わせに来てくれた。 中でも、いつも、父の介護に当たってくれた若い青年が、遺体となった父の枕元で、座り込んだまま、長いこと泪を流した姿は、仕事を離れた一人の人間の気持ちであったろう。 父は五月生。 晴れ男だったのだろうか。 旅だった日から、告別式まで、ずっと青い空であった。 父は元気な頃、短歌を愛し、その道にいそしんでいた。 短歌を捨て、連句に入ってしまった私だが、父の死をきっかけに、また、短歌に戻りたい気持ちが湧いてきた。 本当に自分を表現できるのは、短歌である。 連句には、孤独に耐える厳しさがない。 いずれ、父の遺稿をまとめることになる。 もう一度、短歌を見つめ直したい。 大空の絹ひとひらも動かさず父は逝きけり初夏の日に
9年前になる。 蓼科の山荘に、父と母を連れて行ったことがあった。 散歩の好きな父に、森の中を歩いて貰いたかった。 そのころには、もう父は、知らないところを一人で歩くには、不安を覚えるようになっていて、夫か私が付いて歩いた。 家の前からなだらかな坂を下り、別の小道に出ると、小さな流れがある。 「この川はどこに流れていくんだろうね」と父が言った。 そして「逝く秋の川の流れに付いていく」と、独り言のように付け加えた。 短歌を嗜んでいた父は、時々、こんな風に、喋っている言葉が韻文調になる。 そしてしばらくの間、小さな流れを見つめていた。 こんなことも、いまは彼岸に渡ってしまった、父との思い出である。
昨日父は帰らぬ旅路についた。 おとといの夕方、私は泊まるつもりで父の様子を見に行った。 いつも日曜日に、夕食を共にすることになっていた妹が、急用が出来たので、代わりに行って欲しいという。 3時過ぎに行くと、父は点滴が終わったばかりで、眠っていた。 熱が高く、苦しがっていたが、痰を引き、水分補給の点滴が終わって、少し楽になったらしい。 数日前から、もう自分の口から食べたり飲んだり出来なくなった父は、点滴だけで生きていた。 熱もあるので、命の終焉が近づいているのかも知れないと思い、妹たちと交代で、見舞っていた。 「きょうは泊まっていくから」というと、母は、ホッとした顔をした。 疲れの目立つ母を、少し休ませたいと思い、妹が帰った後、父と母が見えるところに、椅子を置き、仮眠した。 介護士が、夜中でも、ちょくちょく来て、世話してくれる。 その度に母は起きて、一緒に様子をのぞき込む。 父は時々苦しそうな息をした。 口が乾いているのだ。 何か飲ませてやりたいとどんなに思ったことか。 だが誤嚥の可能性があるので、禁じられていた。 明け方、介護士に「脱水があるようだけど、息が苦しそうなのは、それもあるのではないですか」というと、「朝、ドクターの回診もありますから、様子を見て、点滴をするかも知れません」と言った。 朝になり、看護婦さんに啖を引いてもらった父は、楽になったらしく、穏やかな寝息を立て始めた。 しばらく様子を見ていたが、父は静かに眠っていた。 良かった、そのうちに医師も来るだろうし、妹も、昼頃来ると言っていた、今のうちに自宅に帰って、また来ようと思い、父のもとをはなれた。 家に帰り、シャワーを浴びた。 暑い日だった。 しかし、その間に父は、寿命が尽きてしまったのだ。 電話を掛けて来たのは、母だった。 涙声ではあるが、しっかりしている。 すぐに別の妹に知らせたが、二人とも電話口で泣いてしまった。 あのまま、父のそばにいれぱよかった、後悔に胸がしめつけられる。 タクシーでかけつけ、父の顔を見ると、生きているようだ。 触るとまだ暖かい。 私も、妹たちも間に合わなかった。 そう、思うと、また悔いの涙が溢れる。 こんなことなら、夕べ、沢山水を飲ませてあげればよかった。 もし、誤って窒息しても、父にとっては、命の水になったかも知れぬのに。 でも、最後に目を開け、母の顔を見て、うなづいたと言う。 それが別れだったのだろう。 母のそばで亡くなってよかった。 父は五月生れ。 誕生日が来れば、96歳になるはずだった。 五月の訪れを待つかのように、晴れた空の向こうに行ってしまった。 父の行った先には、たくさんのきょうだい、友人たちが、酒好きな父のために、酒宴を用意して待っていてくれるだろう。 この世とあの世を隔てる橋を渡る時、父は何を思っただろう。 残された私たちには悲しいが、人間らしく死を迎えてよかった。 今はそう思っている。
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