ダメダメちゃむ日記
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2002年11月26日(火) 美酒

長い、不毛な闘いだった。
女性もんだいと関わって10年、研究が全国で認められたこともあった。学習の機会も多く与えられた。これこそが、今、私達に必要なことだ!と自信があったし、自負もあった。
けれど、私は運動を広げることができなかった。異動した支店の中では、私は「1人」だった。現在頑として存在し、連鎖を続ける「女性差別を解消」しようとすることで、私は奇人変人扱いだった。前任支店で思いもかけぬ過大過ぎる評価を受けたせいだろうか、私はどんどん萎縮していった。女性の中にあっても、である。
誰も男性中心の差別的社会構造に気付いていなかった。私は孤独だった。思うことを発言しても、会議では否定された。
ただ、年に1度、県下から同士が集まって熱心に論議する会だけが私の支えだった。
「ここには多くの差別に怒りを感じる先輩と仲間がいる。私は間違っていない!」と毎年勇気をもらうのが私自身の救いだった。
個人的に、自分のできる範囲で、女性差別を撤回する為の試みを行い続けた。私の人生を含めた話を聞いてくれた人達の目が輝いていた。支店長にはその都度報告はしていた。支店長も応援してくれた。
そこにドロ水をぶちかけたヤツがいた。担当者だ。ヤツは私の試みは絶対に間違いだ!それこそ差別だ!と決めつけた。お前が何をどこまで研修したのか!?
「成果まで見て下さい!」
と頼み込んで計画通りの実践を終えたが、担当者はそれが気に入らない。途中でヤツが私を妨害したことが対象にバレてしまったこと、「私」の闘いが評価されたことが、ヤツは気に入らない。ヤツは私を罵倒した。他の担当者も私を守ろうとはせず、同じ立場であるヤツに味方した。その人達も女性なのに!!
そして、2年前、私は倒れた。「私」の尊厳はヤツによってズタズタにされた。心も身体も悲鳴を上げていた。それでも、最後まで仕事は笑顔で続けた。上司にはずっと相談は続けていたが、医師とも相談の上、もう限界になった。病休をとることにした。仕事上、とても大切な時期に私は職場を離れた。いや、今になってわかる。私は、ヤツに業務が正常に行えない状態に追い込まれたのだ。ヤツこそが、私にハラスメントを行い、私を職場から引き離したのだ。初めて、正義をもって、ヤツに怒りを感じる。返せ!返せ!私の1年半を返せ!苦しんだ1年半を返せ!私の職業人としての信頼を返せ!

長期出張から帰宅したその足で、セクシュアル・ハラスメントの講演会に行った。副支店長(2年前とは支店長も副支店長も異動で変わっている)から研修用の資料を探して欲しいと頼まれたこともある。私自身も知りたかった。そして、気付かされた。長期出張中に、散々「冗談」という言葉に誤魔化し、私やふくよかな女性に、セクシュアル・ハラスメントを行っていたのは、他ならぬ現在の支店長と副支店長ではないか!? 寝ぼけた目が一瞬で目覚めた。今こそ立ち上がらなければならない。私しか知らないのだから!

今日、当の支店長から25分程度の研修があった。セクハラの何たるかも全く明確にされてない、本社から下りてきただけの、B4プリント1枚半。そして言う。
「時間がないので、これで1時間研修したことにしてください」(^_^ゞ
怒りが沸騰した。どこからの資料なのか、これでセクシュアル・ハラスメントの研修は終わりなのか!? 支店長は冷や汗をかきながら、これから、お互いに研修を進めていく、自分自身も勉強する、と。
講演会でもらった、A3プリント8枚の資料を「私」は持っている。副支店長にもコピーをお渡しした(私のコピーを「資料きたからもういらない」とほざきやがったが、しなやかに押しつけた)、いつでも声を掛けて下さい、と言うと、支店長は答えた。
「ありがとうございます」

研修後、皆が混乱していた。当たり前だ。アレも悪いんか? コレも悪いんか!? ……それがセクシュアル・ハラスメントなんだよ!と叫びたい衝動を抑え、私に質問してきた方には講演会で聞いた具体例を挙げた。驚愕されたが、これが現実だ。私達はあまりにも無知だったのだ。

私はやっと立ち上がれる。本社が「そうしろ」と言ってきたのだ。もう何の後ろめたさもない。やっと、私が「私らしく」生きられる!
連れ合いに報告しながら、お互いに成果があった今日の仕事を祝福しながら飲んだビールは、10年振りの勝利の美酒だった。
けれど、私の本当の闘いは今から始まる。やっと、公式にスタートラインが引かれただけだ。仲間をもっと増やそう。しなやかに、滑らかに、語っていこう。


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