「隙 間」

2011年07月09日(土) 「やさしいため息」

真っ直ぐな道をゆくのなら太陽に向かって延びる道を。
夜明けには眩しい光の中に希望を描き、
夕暮れには長く伸びた影の中に足跡を探し、
今日の一日を確かな記憶に残す。
真っ直ぐな道をゆくのなら太陽を背に歩き始める道を。
昨日の名残がまだあるような影と向かい合い、
黄昏には背後に名残惜しげに長く引き摺る影を思い、
明日の一日をまっさらな白紙に思い描く。

気が付かないうちに七夕が過ぎてしまってますが、その少し前の日に友から久し振りの連絡がありました。
余りの久し振りの話に、その時には確かに「七夕かっ」とツッコミするべきか迷ったのを覚えています。

青山七恵著「やさしいため息」

放浪癖がある弟とばったり電車で再会し、その日から姉弟のふたり暮らしがはじまります。
弟は友人の家を転々とし、同居者の一日の話を聞いて日記につけていました。
姉もまた一日の報告をし、それを弟はノートにかきつけてゆきます。

たった数行の毎日に、これほど起伏のない面白味も何もない毎日を自分が過ごしているのかと思い知らされてゆくことに気付くのです。
あまりにつまらないので、ちょっとした嘘を混ぜてみているのにも関わらずです。

たとえば仕事帰りに何もなかったのに、飲み会に誘われたけれど断った、残念そうな顔をされて申し訳なく思った、といったような少しは代わり映えするように見栄を張ってみたりする嘘です。

それでも、自分の毎日の薄っぺらさにうちひしがれてしまいます。ごく当たり前の毎日で、誰もがきっと場所や相手が違うだけで同じような毎日であるはずなのにです。

弟の友人と引き合わされ、付き合ってみようとしてみます。しかし彼は、誰とも繋がりを求めたり執着しようとしたりしない男で、弟の彼の日記を見つけて読んでみても、彼以外の存在との繋がりが感じられないのです。

誰かと付き合うとか自分には無理なので、と言われてうまくゆかない結果になるのです。
いつまでいるのかわからない弟、いついなくなるのかわからない弟に、つい当たってしまいます。
翌日から荷物と一緒に姿を消してしまった弟。

実家の両親に、弟がまたいなくなってしまったことを伝えます。

うちに帰ってきてるわよ、と母親にさらりと言われてしまいます。
今までだって、どこにいるかくらいは必ず連絡してきていたことも、初めて知らされるのです。

子どもの頃からずっと、いついなくなるのかいつ戻ってくるのかどこにいるのかわからない弟を心配するのは疲れるだけだと、両親も自分と同じように割りきっていたのだと思っていたのです。

芥川賞受賞第一作、といういわば若々しい作品です。

巻末に、作家の磯崎憲一郎氏との対談「これから小説を書く人たちへ」が収められています。
おふたりとも社会人を経て作家デビューをしています。
仕事をしながらよく書けるね、との周囲からの疑問に対して、

「ぼくたちは、小説の中に生きている」

と簡単明瞭に答えているのです。
普段の生活の時間の中に小説を書く時間があるのではなく、小説を書く時間の中に普段の生活の時間があるということなのです。

しかもそれは一日に何時間も書き続けるわけではなく「小説の時間の中に生きている」のだからいつでも思い立った時間に書いていて、普段の時間を割くのとはそもそも感覚が違うのです。

たしかにその通りです。

ちょっとふたつの時間を別けてきてみたのですが、そちらの方がわたしにはよっぽど辛いものでした。
何をしているのか、どうしたいのか、キャパシティが足りないくせにエンジンをふたつ積み込むようなもので、片方のオーバーヒートの熱でもう片方も火を入れる前にダメになってしまうようなものです。

ひとと同じ土俵に並んで見劣りしないように、という自分はやはり自分ではない自分になっているのであって、土俵はひとつではなく、ましてや同じである必然性はないのです。

自転車でも頑張れば登山はできるかもしれませんが、宇宙にはゆけません。
宇宙にゆけるロケットで、近所のスーパーにはゆけません。

それでも、やってみて初めてそれがわかることだってあります。

目指す先がどこであろうとも、
たどり着けるかわからなくても、
その一歩一歩が、
自分の足によるものでありますように。


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