五七三という生年月日が同じの小中学校の頃の同級生がいるのである。
血液型も同じで、しかし、たしかではないがあちらはマイナスだった気がする。 少々睡眠に難があるのもまた同じで、あちらは不眠でわたしは過眠と、同じであるようで真逆だったりする。
当時、特に仲がよかったわけではなく大して話をしたりもしなかったので、他にもどんなものがあるかわからないが、いつか比べあってみたいものである。
さてそんなさして深くもない間柄だが、五七三のブログはたまに拝見していたのである。
すると、なんと彼女の母方の田舎が九州で、そこに行ってきたらしい。
わたしの母も、福岡出身である。
しかし、それはまたおいといて、長崎の坂本竜馬ゆかりの地を回ってきた、というのである。
わたしは、たしかかと聞かれればむにゃむにゃとなってしまうが、かつて友とオランダ坂ユースホステルの屋根の上で、精霊流しの爆竹の爆音と、星空と百万ドルの夜景に、いつか長崎の坂本竜馬像を見に行こう、となったのである。
屋根の上というのは、ホストの方や他のゲストの方々と一緒である。 であるから、やんちゃな行為で屋根に上がったのではないのであしからず。
当時、バイクで回っているという方が、長崎の坂本竜馬像のことを話してくれたのである。 ふたりで高知の竜馬像に行ってきてすっかり満足だった直後に聞かされたことだったので、思わず、むむむ、と腕組みしてしまったのである。
当時はちょうど、新宿で新都庁が建設工事真っ最中であった。
その頃の思いが、ふつふつと沸き上がってきたのである。
それほど昔にわたしは思っていたのである。 それを先んじられたような気がして、なかなか悔しい。
ようし。 坂本竜馬像にゆくぞ。
思いを新に、朝一番に長崎へ乗り込んだのである。
まずは眼鏡橋。
まだ朝早かったのか、バックパッカー風の観光客の姿がちらほら見えるだけである。
これは絶好の機会である。
眼鏡橋の石積のどこかにハート形をした石があり、それを見つけられたら幸運らしい。
桜のエヴァ娘がもちろん、しっかり紹介していたのである。 しかし、具体的な場所までは、さすがにわからないようにきちんとしていたので、自分で探さなければならない。
大勢ひとがいれば、その場所は自ずと知ることができただろう。 わたしが辺りを見回すと、ひと組の恋人たちと、女性同士がひと組。
ここに男ひとりは、注目を浴びてしまう。
「ねえ、石ってこっちじゃなぁい?」 「ほんとぉ?」
彼女らがやいのやいのと石を発掘するのを、三歩ばかり後ろについて回る。
決して、不審な輩のそれではない。
たまたま行く先が同じで、同じ道を歩いているのと同じである。
「あったあった!」 (パシャッ) 「きやっきゃっ」
わたしを気にも留めず、彼女らはわたしを避けて去っていった。
「よけて」である。
決して、
「さけて」ではないことを加えておこう。 そして、さも「初めて見た物珍しい形の石を、意味や所以も知らずに撮っている」風をよそおい、急ぎ写真に納めたのである。
その足で、次は亀山社中跡、そして竜馬像に向かう。
竜馬像は丘の上にある公園の一画にある。
途中、赤ん坊ならすっぽり入ってしまいそうなくらいでかい、竜馬のブーツの形をした像に立ち寄る。
実際に履いてみるように足を入れることができる。しかも靴を履いたままで、である。 それだけでかいのである。
わたしも履いてみた。
なかなかシュールな有り様である。
片方のブーツを、両足で履いてみた。
わたしの靴は、外形だが踵から爪先まで、二十七、八センチくらいはある。
お、お、お。
なんとか入り口を越えたところで、すっぽりと入った。
お、お、お。
やがて視界が斜めに傾いてきた。
両足はすっぽりと固定されたままである。
おっ、はっ、よっ、と。
朝の挨拶ではない。 わたわたと両手を開いて、はっしと着地する。
背後に人の気配がして振り向くと、幼い少年がうつむきがちにこちらを見ていたのである。
パタパタパタと背を向けて駆け出す。 そしてパパママの手を両手で引っ張りながら再び現れた。
「景色がいいじゃない」 「本当だ」
少年の手がほどけたパパママは額に手をかざして海を眺める。
ブーツからとうに脱出済みのわたしは、シャクシャクと会釈ですれ違い出ていったのである。
小走りで亀山社中跡に逃げ込み、ほとぼりさましに、念願の竜馬像へ。
これはどこへいってもそうなのだが、「だからなに?」といったものである。
竜馬が西郷どんならここは上野公園である。
しかし。
わたしには不思議な達成感がある。 ほぼ二十年越しの何かが、わたしの延髄をぬらりと撫でる。
竜馬の尻を記念にパシャリと撮り、丘をおりはじめる。 丘ではない、ここは山である。 この辺りの方々が自転車にあまり乗らないという話は聞いていたが、あまり、では絶対にすまないはずである。
斜面にこしらえられた墓地を抜ける道だが、これはどうみても墓参のためだけの道である。
花を換えたり草むしりしている婆様の姿がたまに見えるくらいである。 まだ朝の時間帯である。 この坂を、段々を、下りきれば、朝飯である。
段を落ちてゆく足も勢いをましてゆく。
店はもう、決めてある。 開店時刻にはまだ余裕があるが、食欲にそれがなさそうである。
足が止まらない。 とっとっとっ、と急な段々を落ちてゆくようである。
開店時刻前に店の前に並んで待つなど、とんでもない。
学生時代のパチンコ屋以来になってしまう。
けっして並んで待ったりなどしないぞ、と固く固く誓いながら、それでもまだ早すぎる到着に向かって、わたしの足は止まらなかったのである。
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