鶴は千年、生活下手

2003年02月01日(土) 感想

この内容は1/31の夜に書いたものです。
本当は、今日は東京ディズニーシーの感想とかを書かねばとか
思ったのだけど、すっかりくたびれて眠くなってしまったので
昨夜書いていた内容でUPすることにしました。
東京ディズニーシーの感想は、明日書きます。

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短歌の知合いの方の裏のHPでは、とてもいいお話を読むこと
ができる。
そして、こっそり、とは言ってもわたしが読んでいることは、
もうそこの皆さんが知っている掲示板で、そのお話の感想など
のやり取りが交わされているのを、わたしはいつもじっと見て
いる。
すんごく書込んでしまいたくなる衝動をいつも押さえながら、
それでもひたすら読んでいる。(変な奴だ。)

裏のHPで公開されているお話の感想を、そのHPの掲示板に
書込んだことは、2、3回有った。
しかし、ちょうど一つの区切りがついた所で感想を書こうとし
たとき、掲示板の箱の中には納まりきらないことに気がついた。

彼女のお話がわたしを泣かせてしまうのは、決まって主人公達
の親達が出てくるシーンで、主人公達が泣いている場面だ。
わたしは、母親に愛されている子供に弱い。
そして、その母親の愛情に改めて気がついた子供の感動に弱い。
自分自身の心の葛藤を、長いことたった一人で抱え込んできた
子供が、初めて親の愛情に向き合えるまでに成長した姿に弱い。

彼女のお話の主人公の一人は、この所よく泣いているのだ。
大人になってから、ただただぽろぽろぽろぽろ涙を流して泣く
ことができるためには、それまでの支えが必要なんだと思う。
特に、主人公の彼にとっては、泣くことは自分自身を許してい
ることなのだと感じていた。
自分自身を無条件で愛してくれるものを持ったと確信したとき、
そしてその愛情がそれ以前にも自分の家族から注がれていたこ
とに目を向けることが出来たとき、彼は自分を許し自分がすで
に許されていたのだということを実感したのだと思った。

わたし自身、ちゃんと泣くことが出来るようになったのは、夫
と暮らすようになってからだと思うから。
ちゃんと泣けるって変な言い方だけど、悔し泣きや、怒りで泣
くのとは全く違う。
ただひたすら、自分のために泣いているのだ。
悲しいとか、寂しいとか考えていなくて、泣きたいから泣く。

それは、何も言わずにただ泣いている人間を、穏やかにただ支
えるだけでいてくれる存在が、母以外に見つかったときだった。
母を亡くしたときに、もうそんな相手はいないと思っていた。
母にさえ、もうずっと泣き顔など見せていなかったから。

涙には、泣くことには、本当に力が有るのだと、30代も後半
になって実感したのだった。

そんなことを、彼女のお話は思い出させてくれる。
そして、この先にも、もっといいお話が控えているのを、実は
もう知っているのだ。
ああ、何を書いてもまったく彼女にはかなわないのだと思い知
らされる、なんだか幸せな羨望。

 寂しいと涙の跡をつけながら僕に向かって無防備な笑顔(市屋千鶴)

ああ、こんなところに感想を書いていて、ごめんね。


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市屋千鶴 [MAIL]