2学期に入って、息子に変化。 大好きだったはずの「書写」(習字)の授業で、出席はしている が、道具も出さないままに過ごすようになったらしい。 支援級の担任も気にしてくれて、本番での失敗を恐れているのな らと、支援級の個別授業のときに練習をさせてくれたりしている。 しかし、練習は水で何度もかける練習用の道具を使っているが、 授業では墨汁を出して書くわけで、どうやら墨汁を出してという ところに引っかかりが出てきてしまっているということらしい。
墨汁の匂いが気になりだしたのか、とも思ったが、周りのみんな の墨汁の匂いもするなかで授業に出席できているのだから、そう ではないのかもしれない。
土曜日にグループ療育にでかけたが、保護者同士の話のなかで、 他の子も「書写」がだめというケースがあったようだ。 グループの日は夫が付いていく日なので夫からの話なのだが、や はり水で書く練習は大丈夫なのに、墨汁で書くのがだめだという ことだった。 失敗する事のダメージは周りが思っているより大きいのだろうか。 1学期はわりと平気だったのになあと思う。
夏休みの個別療育の中で、失敗に対しての捉え方がわれわれとは 違う事を改めて知った。 改めてというのは、失敗が大きなダメージだという事は想像して いたが、それが自己に対するほぼ全否定に近いほどだということ を知らされた感じだ。 失敗といっても、大きなイベントなのでの大失敗と、日常生活の 中での小さな失敗と、その程度は様々なのだが、息子にとっては、 日常生活の小さな失敗であっても、それが自分はだめな奴だとい うことになってしまうらしかった。 「まっ、いいかっ。」というように、さらっと流す事の出来ない 日々は結構辛いものだろうと推測する。 臨床心理士の先生と、失敗にもいろいろあって、たいていの事は 「まっ、いいかっ。」といってやり過ごしながら、気をつけてい けばいいんだよということを、時間をかけて考えられるようにし ていこうと相談したばかりだった。
失敗について、自己認識してしまったから、よけいに失敗が怖く なってしまったのだろうか。 だとしたら、そこからの回復と訓練しかないのか。
まあ、書写については、水で練習させてもらいながら、お正月の 書き初めができればいいかなと、それくらいの向き合い方でいく しかないかなと思っている。 とにかく、心の持ちようは、すぐに変えられるものではないので、 時間をかけていくしかない。
母の場合は、もう54年も生きているとたいてい失敗は、「まあ いいかあ。」、と言ってやり過ごす事が出来るようになってきて いるので、10歳の自分を思い出すんだぞ、という覚悟で。
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