先日、居合についての取材を受けました。 いろいろ聞かれたのですが、 特に自分自身にも、改めて問いただしたのが 「何故、居合をするのですか?」という問い。 極めてシンプルな質問ですが、一言では返しにくい 質問でした。 もしかしたら、後日、私の言葉としてか、あるいは 私の所属する流派の会の館長さんの言葉で出るかもしれませんが、 どうせ紙面の関係で、全てが載るわけではないので、 先に補足をしておきます。 「何故、居合をするのか」、いくつか理由があります。 まず、私は小さい頃は、自分に全く自信が無く、何を やっても中途半端。成績も良くなかったし、引越しした頃の いじめにあった経験がこびりついてて他人に合わせて チャラチャラして仲間に入ってるのが精一杯。 周りからはどう映ってたかわかりませんが、自分自身はそんなとこ。 そんな自分を変えたのが空手との出会い。以後、ボクシング、テコンドー など、武術の道に入っていくわけです。各種格闘技の経験の成果と意味は 大きいのですが、中学校から読み出した兵法書や歴史小説の影響を 受けて、高校3年のボクシングのインターハイと空手での国体が 終わった頃から、武道の道を歩きたいという気持ちがシッカリと 自身に出来上がってました。 その後、実際には、それを職業とすることは、なかなか叶わず、 10数年前にやっとボクシングジムを設立。ただこれは、 私の持つ武道感とは違うもので、ただし、高校時代から、 自分をつくり上げてきた歴史からははずす事の出来ないもので、 これがあったからこそ、今の武道の追及の段階があるといえるものです。 但し現在は、ボクシングジムは信頼できる情熱家の後輩に引き継いで もらって、創世記から次の段階へ発展的に頑張ってもらっています。 県のボクシング連盟の副会長としてはかかわっています。 さて、本題の居合。 私は、現代武道といわれるものの中には、スポーツとはっきり言ったほうが いいものが随分あると思います。 また、「武道」という事で、通わせる親たちも、指導者の一部も、 現代社会では使う場面がほとんどありえない事から、礼儀作法と 集中力、落ち着きといったような精神的効果を求める場合多いようですね。 確かに武道をしていく中で身についていく可能性の高さに精神的効果は ありますが、私は多くの皆さんが、その「精神的なもの」を 狭義なものとして捉えているのではないかと思います。 私の話に再び戻しますが、私の場合の一つ目の理由は、世相や対人関係の 中で余裕無く対応してる自分を、あえて、「空」にして、クリアーな 状態から再起動をかけるようにするため。それがひとつ。 二つ目は、日頃、仕事にも少し慣れてきて、周りの自分への対応などに 変化が出始め、勿論、仕事に対する自負もある程度もてるような 事もあったりする中で、天狗にならず、鼻がのびそうになるのを へし折ってくれる存在、つまり師と仰ぐ人の存在が欲しかった事。 それと、仕事ではなく、一人の人間として、生きていくための 土台となるものが欲しく、それが自分をここまで育ててくれた のは武道であるという事を再認識した事。 また、この人間のライフワークの土台となる生き様が無ければ 日常の世相や様々な人間関係から出てくるものに流されて、 自分を失う事になりかねないから。 最後ですが、古武道である我が英信流居合兵法から得るものは、 充分、競争原理の現在社会で使えるという事です。 居合には「鞘の内」という言葉があります。どういうことかといえば、 心得として鞘の内とは、「抜かずして和するが理想なれど、やむを得ず 応ずる時は、気を持って相手を圧し、抜き打ち一閃、鞘離れの瞬時 にして勝ちを制する。」つまり、相手の出方、考えを充分に把握し、 出来れば闘わずして事を制する。 しかし、相手があくまでも攻撃する気で向かってくれば、その動きに あわせて対応し、刀で言えば、抜くからには0.数秒でも早く相手より 先に斬り付け、勝利を得る。「闘うからには勝たねばならない」という事。 その戦いに必要なのは、何のために戦いに動くかという大義が必要 と、闘った結果にどの様な効果が得られるかを自分自身が納得しておく事。 政治・経済の見通しが不明で、治安・家計・老後・今の子供たちが大人になった時の社会状況などなど、不安要素でいっぱい。 現在を見ても、競争原理の中での選択と結果への自己責任。不安な生活を 抱えた戦いの毎日で、仕事の面では結構回りは競争相手や敵が多いし 自分のとる道への選択の連続の毎日。 今の時代、よほどのことが起きない限り、日本刀を持って実践に 使うチャンスは、ほぼありえませんが、居合の理念、考え方、周りへの 注意・察知・読み、相手の動きをみての対応策と、最後に勝つ事。 それを支える日本古武道で鍛える精神力。それらは充分に現代社会に 応用できる哲学であり、奥義ですね。それらが私の居合に傾注し、 武道家であること、仕事以前の、中田という人間としての 土台でありライフワークが「武道家」である事の理由です。 ほんとは、まだまだ喋り足らないんだけどね。 最近は、日本古来からの伝統文化のひとつとしての古武道の継承 とうい社会的任務のような事がかぶさってきました。 これは、スロ−ライフや本物志向とか、和風のものがもつものの 再評価という事もあって、少しでも役に立てれればと思っています。
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