六本木ミニだより
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2002年02月21日(木) 『ビューティフル・マインド』〜痛がる人々〜

 午後からUIPにて『ビューティフル・マインド』の試写に行ったのだが、いやもうすごい混雑だった。20分前に行ったのに補助席(=パイプ椅子)の分までいっぱい。正規の座席が50しかないのに、両脇の通路のパイプ椅子が、50ぐらいあって、通路の方が人口密度が高い。おまけに、今日、暑かったしね。

 私は実は、今日、何の予備知識もなしに行ってしまったのだけれど、精神分裂病を抱えながら後にノーベル賞を受賞した、実在の数学者を描いたこの映画、前半、かなり痛いのだ。後半、本人が病気であることを自覚してからはかなりよくなるのだけれど、前半がとにかく痛い。数学者が暗号解析のために国の未来を背負うとされいた冷戦時代、主人公は、国のために少しでも役立ちたいと思い、国防総省の求めに応じて、雑誌からの暗号解読に情熱を傾ける。しかし、尽くしても尽くしても、それは幻覚の中の出来事なのだ。

 この時点で、私は周囲の鑑賞者の人々に、かなり不信感を感じていた。この、明らかに通常の状態を超えた人々は、いったい何を求めて、この映画を見に来たのだろうか? 「痛さ」を求めて来たのだろうか?(そのわりに、隣の人なんか寝ている) それは、日常の暮らしの中で、我々が「痛さ」を感じる機会が減っているからなのだろうか。でも、「痛さ」を感じられないと、人は「生きている」という感覚も得ることができない。だから、人は痛さを求めるのだろうか。 精神障害の人に?

 後半になって、この映画は突然面白くなってくる。それは、主人公ジョン・ナッシュが、「精神障害だから」ではなく、「人間だから」苦しむのだ、ということがわかってくるからだ。主人公が、「興味の対象」ではなく、「共感の対象」に変わるのである。
 ノーベル賞受賞式での彼のスピーチは、心を打つものである。

私は、数に論理を求めてきました。
論理とは何か?
私はそれを求めて、物理的(=フィジック)な世界と
哲学的(=メタ・フィジック)な世界を
旅し、
幻覚の中に迷い、
そして戻ってきました。
そして、最終的に、愛の中に理があるとわかりました。


 私は、この言葉に、どうして打たれたのだろう? 自分が精神障害をもっているから? それとも、私が人間だから?
 私も、世界のどこかにこの世界の仕組みを完璧に説明する理論があると信じているし、それを求めて旅をしている。もしかして、幻覚の中に迷い込んでいることもあるかもしれない。でも、戻ってきている(と思う)。
 もし、この共感が私が精神障害をもっているからだとすれば、精神障害もなかなかいいものであるように思う。でも、おそらく、そうではないだろう。なぜなら、精神的に健康である人も、この言葉に共感する人はきっといるだろうと思うからだ。

 実際、この世において、何かを「成す」ことができるかどうかは、精神障害があろうとなかろうと確率的にはあまり変わりがないんじゃないかという気がする。やる人はやるし、やらない人はやらない。やろうとしてもできない人もいるし、やることに興味のない人もいる。

 でも、私は、それを「成そう」という旅に出ていることに結構満足しているし、楽しいことだと思っている。そして、試写を見に来た人のなかにも、たくさん、そういう人がいただろうと感じている。そうじゃないと、ちょっとあの混雑ぶりは考えられない。
 ほんとに暑くて、のぼせそうでしたね。みなさん、お疲れさまでした。
 

 


石塚とも |MAILHomePage

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