2003.03.04 (Tue) 12:14 Viewer: 20 Letters: 5030 ゼミの課題が終わったということで、 ずっとゲームをやっていた。 どうするんだ、俺は本当に…。
たいしたことではないとは言え、 まだやることは残っている。 ずっと積み残しておくわけにはいかない。
周囲は就職活動で大変なことになっているのに、 僕にはそれに対する危機感すらない。 危機感を抱いてもおかしくない状況なのに こう思っているということは、 やはり社会から離れた感覚が原因なのかも知れない。 もう、バーチャルな世界に依存しているのだろうか。
これから僕の人間関係はどうなるのだろう。 大学には、ほとんど卒論でしか行かないことになる。 これから、どんどんその関係は小さくなっていく。 普通の研究室ならそれなりの人数がいるが、 うちの大学は極端に人数が少ない。 4人しかいないのでは人間関係もへったくれもない。 もちろん、担当の教官や技官の人もいるわけだが…。 でも、そういうのもいいのかも知れない。 僕はもともと、狭く深くの方が得意だし…。 狭く浅くというのが今までのパターンだが。
人間関係は、とても混沌としていて、 理解するのが難しいことだと思う。 簡単なことが大きく影響するのに、 大きく思えることでも、問題にならないことだってある。
その中でも、言葉遣いが気になる。 僕は、なるべく丁寧な言葉遣いを心がけているつもりだ。 もちろん、思い通りにならないことは多いが、 それでも、理想はあくまでも丁寧に話すことだ。
だが、それがよいとは限らない。 乱暴に感じる話し方でも、相手がそれで不快に感じるとは限らない。 むしろ、その方が強い印象を与えられることもある。 丁寧な話し方は、ある意味で逃げていると思う。 確かに悪印象は与えにくいが、 逆に強い印象も与えにくい。 無難なのだ。 もちろん、無難が悪いわけではない。 僕は、基本的に、あらゆる選択において より無難な方を選択している。 好んで困難を選択すべき理由がないからだ。
言葉遣いなんて、人間関係の要因の中では細かいことだ。 にもかかわらず、これがその人の見え方を大きく変えることになる。 特にインターネットのコミュニケーションでは、 その人のわずかな部分が大きく切り出される。 言葉遣いは、その一つだ。
一方、大きな要因として挙げられるのは、 何と言っても顔だろう。 顔は、その言葉自体が「代表」という言葉の代名詞として使われるくらい、 その人を大きく表現する要因だ。 本人が望むと望まざるとに関わらず、 多くの人は、顔でその人を判断することが多い。 だが、それとても、 時と場合、あるいは人によっては、 問題にならない場合もある。 極端な例は、やはりインターネットだ。 顔なんて見えはしない。
顔の影響を調査した統計を見たことがあるのだが、 多くの人がよい顔だとする人の場合、 その人を見ただけで、どのような人だと思うかと尋ねたところ、 プラスのイメージを返答する人が多かったという。 一方、多くの人がよくない顔だとする人の場合は その逆だったそうだ。
僕は、まじめで成績がよいという印象を持たれることが多い。 これもおそらくは、顔の影響が少なからずあるだろう。 それから、話し方もだ。 僕は大学で、一緒にいることの多い友人たちがいる。 その中で僕は、もっとも不真面目で、もっとも成績がよくないはずだ。 成績の方ははっきりしないが、不真面目であることは間違いない。 単純にレポートの提出数だけ比べたら、 僕はその友人どころか、留年している学生と比較しても それほど大差ないほど、レポートを出していない。
一緒にいることの多い友人のうちの1人は、 長い髪で、金髪に近い茶色の髪で、 アロハや真っ赤なシャツで、バイクで走り回るのがよく似合っている。 ブランドのバッグや財布も、ごく自然に使いこなしている。 実際どうなのかは知らないが、少なくとも僕にはそう見える。 もう1人は、ゴツい感じで、 いかにも力強い印象を与える顔だ。 野球で鍛えていたようで、 実際、その印象を裏切らないだけの体力があることは間違いない。
一方僕は、いつもメガネをかけて、 長めの髪を中分けにしている。 顔は自分でもかなり色白だと思う。 今はどうでもないが、 昔はプールに入るだけで唇が紫色になるくらい、 かなりの虚弱体質だった。 今でも早足で2キロ、3キロと歩くと 肺が締め付けられるようになるから、 基本的に虚弱体質は変わっていないのかも知れない。 ちょっと腹痛になったりすると顔色がさらに青白くなるらしく、 今にも死にそうだ、などと言われる。
だがこのような顔は、 明らかに体力がなさそうに見える代わりに、 知的な印象を与えることが可能だろう。
さらに僕は、その顔を裏打ちするように、 なるべく論理的な話し方を心がけている。 僕よりもさらに論理的な話し方を好む先輩の影響を受け、 論理的記述の多い価額の啓蒙書を読み、 その傾向はさらに顕著になっている。 この日記もその傾向を加速していることだろう。 内容がよくなったかどうかは分からないが、 より論理的な印象を与える文章にはなっていると思う。
ここで話は飛ぶが、 いくら僕が論理的な話し方を心がけたところで、 人間は感情の生き物だ。 感情によってその精神が成り立っていると言ってもいい。 人間の心は何らかの論理によって制御されているわけではないだろう。 例えその実態が何らかの脳内物質だとしても、 外に現れるものは、論理とはほど遠いものだ。
これは、転載の転載だ。
33 :Nanashi_et_al. :02/05/22 22:16 2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。 その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」 団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」 少女「で、何しにきたんや?」 団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」 少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」 団体「・・・・?」 少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。 寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて 夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。 私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。 あんたらにわかるか? 消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。 でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。 あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。 団体は撤退。 彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
元は2chに載っていたものと思われる。 これを、なるべく論理的に考察してみよう。
まず、この文章は、1行目から読みとれるように、 自衛隊の駐屯地祭に反対する団体について述べており、 筆者はその団体に対して反感を抱いている。 そして、その団体が軽薄であるというようなことを 暗に示しているように思われる。 少女の方が確固たるものを持っていると思わされる。
一方で、少女の主張は団体とは何ら関係がなく、 少女の主張によって団体が主張を曲げる必要がないことが分かる。 なぜなら、少女は自衛隊が震災において 救助活動を行ったことについて述べており、 団体の目的である駐屯地祭については何も述べていないからだ。 つまり、少女は団体の主張に何ら耳を貸さず、 団体の存在が不快であると暗に主張し、 「自分たちを助けてくれた自衛隊に対してひどいことをするな」という 感情的な主張をしていると思われる。
団体はその少女の意見を受け容れ、 その場から離れることになった。 この全体を検討すると、 相手の主張を聞かず一方的に意見を述べた少女と、 意見を主張しているにもかかわらずまったく聞き入れられず、 なおかつ、相手の意見を受け容れ、行動に移した団体という構図が読みとれる。
この文章を論理的に考察すると、 自衛隊が震災において救助活動をしたことと 駐屯地祭は関係がなく、 自衛隊の通常の活動とは関係なく、 非難されるべきであるかも知れないということが言える。 従って、団体の主張は聞くべきものであると考えられる。 一方少女は、謝礼を述べに来たのであって、 そもそもこの団体と議論する理由はない。 駐屯地祭について、少女は賛成の意見を述べていない以上、 そもそも議論は成立していない。 従って、論旨が明確なのは団体側であり、 少女の意見に聞くべき明快さがあるとは言えない。 情状について述べただけで、それによって 何の結論も導き出していない。
だが、この文章を読んだ人間が受ける印象はどうか。 僕を含め、団体側が正しいと感じる人は少ないだろう。 直感的に、少女側に正当性があると感じるに違いない。 しかし、上にも述べたように、 正当性は団体側にあると考えられる。 僕の考察に間違いがあることも考えられるが、 この食い違いこそが、 人間が感情的な生き物であることを示唆していると考えられる。
それがよいかどうかはときどきだろう。 論理的に最善の道ではなく、 多くの人がよいと信じる道の方がよいこともあるだろう。 消費税を導入する方がよいとしても、 反対論が多ければ導入すべきでないなど、 感情論が論理を越えることはままある。 もちろん、消費税については僕の意見であって、 多くの人が消費税の増税に反対しているのかどうかは知らないが。
言いたいことは、 人間は感情に支配されているということだ。 その意味で、論理を極端に重視することは、 重大な問題をはらむ。 つまり、他の人間が必ずしも論理的でない上、 人間関係そのものが混沌としていて 論理で理解するのが極めて難しい以上、 ある程度の感覚は必須だということだ。 多くの人と共有できる感情がなければ、 円滑な人間関係を築き上げることは難しい。 その詳細は不明としても、 感覚を共有することで、何となくうまく行く 関係を築くことができるだろう。
それはそれとして、 反戦のデモンストレーションについては、どう思うだろうか? 基本的には、好感を抱く人が多いのではないだろうか。 反戦という意志を、集団の力に乗せて発信する。 だがこれも、問題を多く含む。
集団行動である以上、 少数の意見を封殺する危険が常にあることが1つ。 個々の細かい意見は消え、 全体として漠然とした意見となってしまうことが1つ。 だが、最大の問題は、社会に障害を与えることだ。
反戦デモンストレーションで 交通機関は何らかの影響を受ける。 その人たちが集まることで混雑するくらいは容認されるべきだが、 場合によっては、その人たちが交通機関を停止させる。 リンクだけでなく、場合によってはモードも停止する。 ちなみに、リンクというのは交通路、つまり、道路や線路であり、 モードというのは交通を提供する器具、つまり、車や電車だ。 さらに言ってしまえば、交通の3要素の最後、ノードも停止する可能性がある。 ノードとは、駅や港、空港、インターチェンジなどの結節点を指す。 それだけではない。騒音等の公害も引き起こす。 商店なんて、もはや商売にならない。 集まった人たちが買い物をすればいいが、 反戦を必死に訴える人々が、のんびり買い物をするとも思えない。
で、何が言いたいのかってことだが、 確かに感情は重要だ。 この感覚は、人間である以上、離れるべきではないものだ。 しかし、だからと言って、 感情に判断を任せるべきではない。 感情も考慮した上で、やはり正しい選択を十分に考えるべきだ。 この場合、多くの人々を犠牲にしてでも主張すべき意見なのかを 検討しなければならない。 だが、反戦デモンストレーションについては、これでは不十分だ。 反戦というメッセージは、人の犠牲があっても主張すべきだとするに 十分なインパクトを持っているからだ。 この場合、自分の価値観を押しつけていないかどうかが重要だ。 反戦は、普遍的で多くの人が共感するだけに、 このために何をしてもよいと思われがちだ。 だが、普遍的であるということは、ことさら主張する必要性がないとも言える。 それなのに迷惑をかけてまで主張すべきかどうか、 十分考えなければならないだろう。
今ここでこのような考えを書くことに、 なんの意味があるのだろう。 こんなことを考えるより、 この日記の存在意義を考えた方がよいだろうか。 まあ、楽しければいいか…。 人生なんて、そういうものではないだろうか。 今を幸せに生きるのが一番だ。
2003.03.05 (Wed) 2:31
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