Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年03月03日(月) 傷つけることを知るべきか

2003.03.05 (Wed) 12:37 Viewer: 11 Letters: 2887
この日は、ゼミがあった。
書いたプログラムだが、やはりコンパイルできただけで、
正常に動作はしなかった。
かなり適当に書いたので、
どこに問題があるのかまったく分からない。
ちゃんと内容を整理して、
1から書き直すしかないだろう。
そう大変な作業でもないので
まあ、1日あれば終わることだろう。

ゼミは、10時から始めて、
16時くらいまでいろいろと話をしていた。
いよいよサーバサイドのJavaをはじめることになる。
無断でテキストを持って帰ってしまったが、
まあ、たいした問題ではあるまい。
…本当によかったのかどうかは分からないが。

昨日、神戸の震災の少女が
どうのこうのということを書いたが、
考えてみれば、ああいう論理と感情の食い違いが、
裁判結果の違和感にも通じるのだと思う。
裁判を見ると、明らかに悪いと思われる人が
無罪になったりすることがある。
これは、罪刑法定主義と推定無罪の原則によっているからだろう。
すなわち、法に定められていなければ裁かれず、
確証がなければ罪とはならない。
さらに言えば、法という定められたものから論理によって
対象の行為に対して適用する。
だから、感情的に悪いと思っていても、
法に定められていない限り、処罰することはできない。
さらに言えば、どんなに悪そうに見えても、
確証がなければ罪にはならないのだ。

大学へ行く途中、ふと思ったこと…。
人を殴るってことは、知るべきなのか、それとも禁忌とすべきなのだろうか。
殴ること、殴られることは、
確かに痛みを知ることになるだろう。
痛みを知っていれば、そう簡単に人を殴ろうとも思うまい。
しかし、絶対禁忌とすることも考えられる。
すなわち、そもそも殴ることはいけないことであって、
知る必要すらないものだとするのだ。
感覚としては、人殺しに近い。
ちなみに、僕は後者だ。
カツアゲ(脅迫と言う方が正しい)されたときに殴られたことはあるが、
それ以外にそういう経験はない。
ちなみに、そのときは、
殴られても痛くもかゆくもなかった。
おそらくは、相手もビビっていて、
強く殴ることができなかったのだろう。
もちろん、人を殴ったことなんてない。
記憶に残っていないだけかも知れないが。

僕のようなタイプが危険だと思うのは、
何も知らないことだ。
殴られて痛いということも分からないし、
どのくらい殴るとどうなるかということも知らない。
相手の痛みを知らないのだ。
だから、おそらく自分の身を守らなければならなくなったとき、
暴力を極端に嫌っていることから考えても、
その暴力に対したとき、
相手を完膚無きまでに破壊することだろう。

僕には確かに力はない。
しかし、人間の体なんてもろいものだ。
確かに、時には驚くべき強靱さを発揮することがあるだろう。
しかし、人間の体を構成する要素は
所詮、強度に限界がある。
それを上回る力を持ってすれば、簡単に破壊できてしまう。
例えば、僕はペーパーナイフを持っている。
ペーパーナイフに刃渡りも何もないかも知れないが、
一応、29センチメートルの長さがある。
この長さは、人間に致命傷を与えるに十分な長さだ。
材質は、詳しいことは知らないが、
金属製であることは間違いない。
真鍮か何かだと思うが。
金属であれば、人間の筋肉を貫くには十分な強度を持つ。
腹の真ん中にこのペーパーナイフを突き刺せば、
それだけで重傷を負わせることが可能だ。

小指をつかんでひねれば、それを折るくらいは容易なことだ。
眼球に爪がかすれば、それだけで視力に重大な影響を与えるだろう。
深さによっては失明の可能性もある。
後頭部の下の方を強打すれば、
呼吸器官等に障害が現れることも考えられる。

要するに、暴力は極めて危険だと言うことだ。
おそらくは、暴力が危険だという認識はあっても
「極めて」危険であるという認識はない人が多いのではなかろうか。
これはつまり、生命に直結する問題が起こりうるということだ。

これを感覚で理解すべきなのか、
それとも、論理のみで完全に否定し、
感情では絶対禁忌として封印すべきなのか。
その人の事情によるべきなのかも知れないが、
僕は、前者の人間が恐ろしくてたまらない。
殴るということを知るだけに、
時と場合によっては、そのような行動に移る可能性がある。
例えば、「殴らなければ分からない」などの理屈によって、
人を殴る可能性があるということだ。

だから僕は、女性の方が話していて安心できると感じるのかも知れない。
単純に男なのだから、女が好きなのは当たり前だ、
くらいに思っていたのだが、
ほとんどの男の場合、自分に危害を与える可能性がある。
彼らが感情的になって拳を振りかざした場合、
僕は自分の身を守ることはできない。
心の底から安心して話すことのできる男など、
僕にとって、そう多くはない。
何らかの形で暴力を振るった経験を話す人は、
僕にとっては、多かれ少なかれ、恐怖の対象となる。
彼らは、「僕が知らない」力を行使するのだ。
その結果は、知識として持っていても、
現実にどうなるのか、などということは僕には分からない。
論理として知っていても、感覚として分かっていないのだ。

一方、女性が怖いと感じるのは、言葉。
僕は体力のない方とは言え、
女性を力でねじ伏せることは、その気になれば可能だろう。
…そんなことをするつもりはさらさらないが。
しかし、言葉はどうにもならない。
警戒心を抱いていないだけに、
もし悪意を向けられたら、おそらくは
暴力以上に僕を傷つけることだろう。
僕には、そのような経験がないからだ。
心構えも何も、ありはしない。

だからこそ、怖い。
前にも書いたが、僕に対して向けられる、
第三者に対する悪意。
「あいつがうっとうしい」という言葉。
それを僕に言うことは、僕に対する信頼の証かも知れない。
信用できない相手に、他人の悪口など言うものではないかも知れない。
だが、しかし、
その悪意の対象が、いつ僕になるかは分からないのだ。
僕の知らないところで、
僕に対する悪意を、誰か別の人にぶつけているのかも知れない。
僕はその人を尊敬しているのに、
その人は僕を嫌っているのかも知れない。

つくづく思う。
僕はもう21歳になるというのに、
経験が恐ろしく足りない。
そのようなことを受け容れるだけの心の余裕が、おそらくはない。
実際そのような経験をしていない以上、
どうなるかは分からないのだが。
経験などなくても、覚悟さえしていれば大丈夫なのかも知れない。
しかし、覚悟することは、心に壁を作ることだ。
尊敬する人に対して盾を向け、
その陰から、こそこそと会話をする。
恐怖に打ち震え、自分を守りながら話す。
それで一体、何が得られると言うのだろう。

僕は、自分を隠さず、
ストレートに表現しているつもりでいた。
しかし、何があっても傷つかないつもりでいるから、
それはつまり、自分の殻の中に閉じこもって、
必死に自分を守っているのかも知れない。
そして、ひとたび何かあれば、
拒絶反応を示して自分の殻に閉じこもる。
これで相手に理解を求めるのは、
不可能なのかも知れない。

2003.03.05 (Wed) 14:01


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