2003.03.12 (Wed) 15:57 さてさて、今日が12日で、これが7日の日記だから、 これから5日分書けばいいのか。 僕もなかなか暇なものだ。 って、6日だな。 やれやれ。計算もできなくなってきたか。 日がな1日ぼーっとしていると、ろくなことがない…。
問題は、今日から日曜日まで。 書くことすらないのに3日分も…。 せめて、日記に書くことがあるくらいの生活は した方がいいのだろうか。
ということで、日付とは関係ないことを…。 精神障害者の収容施設、というのをご存じだろうか。 と言っても、僕だって詳しいことは知らないし、 この収容施設という表現自体、 人権侵害かもしれないが…。 ではなんと言うのか、などということは知らない。
そこでの実体だが、かなり非人間的なものであるらしい。 と言っても僕は、たった1つのエピソードしか知らない。 それは、入浴時、彼らはデッキブラシで洗われる、ということだ。 「いったいなにをしているのですか。」 と、尋ねたら、その施設の職員は、 「体を洗っているんですよ。」 と、平然と答えたという。
ちなみに、ピンとこない人もいるかもしれないが、 デッキブラシというのは、トイレの床を磨くのによく使われる、 きわめて固いブラシに長い柄のついたものだ。 おそらくもとは、船のデッキ、つまり甲板を磨くためのものなのだろう。 つまり、水をかけても問題にならないような、 固い床を磨くためのものだということだ。
この職員は、なぜこのような考え方をしているのだろう。 その人が狂っているとか、 その施設の職員がみんな狂っているとか、 そう言ってしまうのは簡単だ。 それで解決したようにも思える。 しかしそれは、普通の人間が、本来あり得ない行動をとる 原因として、あまりに漠然としすぎている。 なぜこのような環境においてのみ そのようなことをしてしまうのだろうか。
それは、コミュニケーションの問題ではないだろうか。 人間はなにをもって人間と言えるか。 それには人それぞれいろいろあるだろうが、 感覚的な部分では、コミュニケーションが取れるかどうか、 というのがとても大きいと思う。 相手の言っていることが分かるし、 相手も自分の言っていることが分かる。 お互いの意志を理解し合えれば、 相手を人間だと認識できるのではないか。 認識できると言うよりも、心から思える、 と言った方がいいだろうか。
逆に言えば、 相手の言っていることが分からず、 相手も自分の言っていることを理解できていなければ、 感覚的に、相手を自分と同じ「人間」なのだと認識するのは難しいだろう。 これは、精神障害の場合に限ったことではない。 外国人の場合にも当てはまる。 もちろん、コミュニケーション手段は言葉だけではないが、 外国人の場合、その他の価値観も 異なっている場合が多い。 それでも倫理観には共有できる部分があるから それほどの抵抗を感じないのだ。 それでも、抵抗を感じる人はいるだろうが。 外国人に限ったことではない。 日本人でも、子どもなら同様だ。 こちらの言葉を理解することは、能力的に難しい。 それを言ったらお年寄りもそうかもしれない。 また、相手の言葉を理解するのが難しいのも共通する。
人間と言うからいけないのかもしれない。 大人、と言えばいいだろうか。 要するに、上に挙げたような人々は、 人間ではあるが、価値観を共有できない人々なのだ。 価値観を共有できなければ、 不快に思うのはやむを得ないことではないか。
普通、精神障害者の施設に行くような人の場合、 僕のように、 「どうせまともにコミュニケーションなど、取れるわけがない。」 などとは思っていないだろう。 何とかして意志の疎通を図ろうとするはずだ。 だが、それは難しい。 だいたい、それができないから、精神障害者と言うのだ。 ここに、矛盾が生じる。 何とか価値観を共有しようとする職員と、 そもそも価値観を共有できるはずのない精神障害者には 簡単には越えられない壁がある。 その壁を越えられる人もいるだろうが、 ほとんどの人は、越えることなどできまい。 そんな簡単な問題ではないことは、 門外漢の僕にも一目瞭然だ。
だから、狂う。 社会も自分も、相手は人間なのだと信じている。 人間であるにもかかわらず、いっこうにコミュニケーションが取れない。 それでも、そういう施設の職員である以上、 あきらめるわけにはいかない。 結果、どうなるか。 これは、相手が人間であるという前提そのものが 間違っていると認識するしかないではないか。 もちろん、冷静に考えてみれば、 精神を病んでいても国籍が違っても、 同じ人間であることは疑いようのない事実だ。 だが、毎日精神を張りつめた生活をしていれば、 そんな事実も見失ってしまうだろう。 普通は、それにしたってもう少しやりようがある。 でも、考えが浅くなると、 人間は二者択一に走りたくなるものだ。 物事にはいろいろな要因があるのに、 それを単純によいか悪いかで分けたり、 善か悪かで分けたりする人間のなんと多いことか…。 どこかの超大国の大統領など、よい例ではないか。 良いか悪いかを考えるにしたって、 重要なのは、「なにがよいのか」だ。 問題状況をよく考えず、 理想となるべき事柄も考えず、 ただ漠然と良いか悪いかを示すことには、 それほどの意味はない。 感覚的なものを示すことにはなるが、 それは、自分の感覚以外には何の根拠もないものだ。 これだってバランスだ。 感覚だけで物事を考えるのは良くないが、 感覚を捨てて考えるのもやはり良くない。 現在の科学を初めとした理論は、 感覚を捨ててあらゆる物事を検討できるほど、進んではいない。 実際、新しい発見などは、 科学者の感覚的なものによることが多いという。
う〜ん、今日は恐ろしく調子が出ない。 まったく、困ったものだ。
2003.03.12 (Wed) 17:27
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