世の中、考えてもうまくいかないことは多い。大抵の場合、自分がぶち当たるような問題には他の誰かもぶち当たっていて、そういう人のほうがいい答えを導いている場合が多いからだ。その場合、どうすべきか。問題にもよるが、余計なことは考えずに動いてしまうのが一番いい。行き当たりばったりというやつだ。
世の中にはいい言葉がある。おそらくは逆の意味の言葉もあると思うが、考える天才より、行動する馬鹿が勝つ
という言葉だ。憎まれっ子世にはばかる
と言ってもいいかもしれない。ニュアンスは違うが、言っていることは似たようなものだ。実際、冷静に行動した人よりも単なる馬鹿の方が得をしているのではないかと思うことは多い。電車の中で座り込んだりする人など典型的だ。周りの人間から見れば邪魔で仕方がないが、本人にしてみれば幸せそのものだろう。周囲の人間は軽蔑のまなざしで見ているが、そんなのを気にするようなやつは、初めから電車の中で座ったりはしない。
何かやることがあったら、思考を止めて、とにかくやればいいのだ。下手に逆らったりしてはいけない。従順に、ただ黙々とこなすのだ。大抵の場合、その方がうまく行く。例え間違っていても同じことだ。重要なのは自分が所属するローカルな集団の倫理であり、社会全体の倫理ではない。
そう考えると、世の中の反社会的な行動は大抵が理解できる。環境問題しかり、政治の汚職しかりだ。なぜあれほどまでに一般常識とかけ離れた行動を取るのか。それは、彼らが彼らだけのローカルな世界のルールに従って動いており、実際にはその方が効率がいいのだ。社会のルールに従うなんて、面倒で仕方がないのだ。第一、居心地が悪い。一緒に生活している人に反抗したって、幸せな生活は待っていない。
これはもう、人間の構造的な問題だろう。どうしようもない。あきらめて、自分の所属する集団のローカルルールに従うべきなのだ。よく言うではないか。これこそが大人になるということなのだ。夢を捨て、現実を見るということはつまり、視野を狭めて自分の利益に直結する部分に注目するということだ。
とは言え、もう少し何とかならないものなのか…。最近は僕もそうなのだが、あまりに生活に余裕がなさ過ぎて、まわりがまるで見えていない。世の中を見渡す余裕がまったくないのだ。本来なら考えた方がいいに違いない。しかし実際には、そもそも考える時間などない。だから、考えてはいけない。社会が変わるまでは、考えることは放棄して、ただ怒涛のように押し寄せる現実を次々と受け流していくしかすべはないのだ。幸せが欲しいなら、現実から離れればいい。弱い人たちが長時間頭を使わずとも入り込める仮想現実を、数多く作り出しているから。自分が強いだなんて思わないことだ。