現在の世の中では、与えられたことをただこなすのではなく、自分の頭で考えられる人間が求められていると言う。本当だろうか。
最近になっていくつかのことがあって、疑念を抱くようになった。結論から言えば、それは間違っていないが、優先順位は低い。
では、より優先順位の高いこととは何か。それは、従順さだ。社会の枠組み、常識、マナー、ルールと言った数々の制約をクリアしていることが前提だ。重要なのは、ここで言う常識が、一般常識ではないということだ。では、何か。それは、その時その人が所属している社会でのマイナーな常識だ。ルールと言ってもマナーと言ってもいい。どんな集団であれ、その集団において守るべき規約は必ずある。ないとしたら、おそらく「他の構成メンバーが気に入らないことをしても許容せよ」という暗黙の了解があるだろう。自分が自由であるなら、他人も自由でなければならないはずだからだ。もちろん、独裁の場合は知らない。ただその場合でも、自分の地位を保つためにできないことというのはいろいろと出てくるだろう。
要は、そう言った明確、あるいは暗黙のルールを知ることだ。それができていて、初めて頭で考えると言ったことを要求される。逆に、その社会の暗黙のルールに従えない人間は、いくら優秀でも用はない。邪魔なだけだ。おおよそどのような集団であれ、その究極の目的は延命だ。この点、生命と似ている部分がある。人間に限ってそうでもない部分はあるが、およそ生命の第一歩は、死から逃れるところから始まるのではないだろうか。まずは前に進むことではなく、その場で崩れ落ちないことが重要なのだ。
建て前に囚われて以上の本質を見失うと損をする。では逆に、暗黙のルールにきっちり従うのはどうだろうか。僕は、本質を見失う以上に、これはおろかなことだと思う。もちろん、好きでやっているならいいだろう。結局、何をやっていようがその人が幸せならそれでいいのだ。しかし、無理に暗黙のルールに合わせることが幸せだとは思わない。だが現実には、あくまでも暗黙のルールに合わせることが要求される。
必要なのは余裕だと思う。相手が自分の思い通りにならなくても怒らない余裕だ。なぜ、誰も彼もが急いでいるのだろう。そうまで急ぎたい人は、それほど多くないはずなのだ。だが今の社会、効率は善になってしまった。余裕を持った生活を送るためには、この価値観を覆さねばならない。なんとも難しいことだが、現在の世の中は、効率のみを善とする価値観から離れつつあるように感じる。問題は、現在の力ある者たちが、効率を善としているだろうということだ。多くの場合、世の中は力のある人間の意向に従って動く。だが、そこで流れをとどめてはなるまい。仕事を愛していて、仕事だけしていれば他に何も要らない人間など、もはや多くはないのだから。それは、人間の性質が変わっただけではない。仕事が効率重視になってしまったために、全体として、やりがいを見出せない仕事が多くなってしまったからなのだ。