ちょっと初心に返って、これからしばらく、思いつくままに書いてみようと思う。元々そうやってきたのに、一体いつから、テーマを決めて書くようになったのだろう。書くことがないなあ、とか思いながらとにかく書き連ねていて、そのうちそれなりの量になる、ということを毎日続けていたはずだ。
日記というものを考えると、つくづく習慣というのは忘れてしまうものだと思う。毎日同じように生活していたはずが少しずつ変わってきていて、ふと思い出してみると、以前とはまるで違ったものになっている。もう今では、これまでどういう生活パターンだったのか、思い出すことすらできない。まあ、2年も前のことだから、思い出せないのも無理はないのだが。
無気力無関心無感動は今に始まったことではないが、最近は特にひどくなった気がする。昔は、無気力だとか無関心だとか言いながら、そういう自分について考える余裕があった。しかし、今はもう、少しでも早く寝たいとかそんなことばかり考えていて、とても日記を書く気分になれない。原因は明らかで、研究に追われているせいだ。時間的な余裕はむしろ今の方があるくらいなのに、どうしてこれほどまでに追い込まれた気分になるのだろう。
おそらくは、いつまでも終わらないものだからだ。そもそも論文の形が見えてきていないし、終わるまでの道筋も見えてこない。プログラムが書けないと内容も決まらないから展望もない。落ち着いていなくても、振り返ってみれば余裕を持てないのは当たり前の状況だ。この状況に就職問題が重なっているのだから、自分を見失うのも無理はない。
大事なのは、こうやって日々振り返ることなのだろう。振り返ることで、自分を客観的に眺める余裕を得ることができるのかも知れない。で、そのときに意外と重要なのが、ヘッドホンで歌詞のない音楽を聞くことだ。僕はMIDIの音楽を聞いているが、たぶんMIDIでなくてもいいだろう。これは意外と集中できる。SONYのヘッドホンを買ってしまったので低音が強すぎるのは難だが、それ以外はさほど問題はない。あと、MIDIデータの中にはスピーカ用に調節しているものが結構多く、その場合、音を右や左に振り切ってしまっている場合がある。こうなるとちょっと大変だ。右に振り切ってしまっていた場合、左からはまったく聞こえなくなるので、かなり強い違和感を感じる。ある程度は慣れるが、それでもちょっと頭が痛くなる。どちらか片方の耳からしか音が聞こえないというのは、自然にはあり得ないことなのかも知れない。
それにしても、何も見ず、テーマも決めず書き始めるのは久しぶりだが、案外スムーズに動くものだ。昔はスラスラ書けたのに今は書けない、なんて日記を書くことも多かったが、最近はそうでもないかも知れない。思いつくことを何でも書いていけばいいのかも知れない。最近、弟がタバコを吸うようになって、相部屋の部屋の中でも吸うようになった。タバコに関しては、ブルーバックスの本でさんざん害を読んだせいで、昔よりも神経質になっている。臭いをかぐだけで気分が悪くなるほどだ。
思い返してみれば、電車の中でやることは、今も前もほとんど変わっていない。マンガ週刊誌を買う機会が増えたことくらいだろうか。昔と比べておもしろくなったとは思わないのだが、なぜか読みたくなる。なぜそれほど読みたいのかは分からない。昔と比べてゲームボーイアドバンスに飽きたからだろうか。いや、マンガ週刊誌をコンビニで立ち読みする時間がないと感じているからだ。そういう時間を確保してはいけないと思っているのだ。実際は、それ以上の時間を非生産的なことに費やしているのに。最近はDQ6をやり始めてしまった。改めてやってみると、今でないと見えてこないことがいろいろあっておもしろい。ファイナルファンタジーと比べてみると、グラフィックなどはファイナルファンタジーの方が良くできているが、ゲームとしてはドラゴンクエストの方がよくできている気がする。直感的で分かりやすいのだ。システムのバリエーションが乏しいとも言えるが。毎回似たようなイメージでそれほど凝ったシステムではない分、取っつきやすいのだ。ファイナルファンタジーは、毎回違うシステムということにそれほどこだわらなくてもいいと思うのだが、どうなのだろうか。ずっと続けてもいいと思えるくらい、ファイナルファンタジー5のシステムは良かったと思う。まあ、あれはストーリーの問題があって苦しいかも知れないが。
最近、Operaが強制終了することが多くなった。新バージョンのバグだろうか。ちなみに、OSはWindows2000で、Operaのバージョンは7.53だ。特に、ATOKで入力をしているときと、セキュリティのかかったページで作業をしているときによく落ちる。OperaはかなりHTMLの実装に関しては優れていると思っていたのだが、いろいろ調べてみると、実際はそうでもないらしい。インターネットエクスプローラと似たようなものなのだそうだ。W3Cも、いろいろ規格を出すのはいいが、世界一流のソフトウェアベンダーにすら実装しきれないような規格を作ってどうするのだろう。もしかしたら、夢を見過ぎなのかも知れない。その辺の国による違いはあるのだろうか。
うーん、こうやってまともに日記を書くのはかなり久しぶりのような気がする。最近はずっと、書くテーマを決めて、そのテーマに沿って書いてきたはずだからだ。やっぱりこうやってとりとめもなく書いていく方が気が楽だ。
弟は大学院には進まず、すでに就職が決まっている。会社の寮に入るようだが、そこでインターネットを使う場合にはどうするのかと聞かれた。今の会社は、どういう場合が多いのだろう。まさかすべての部屋にFTTH完備!なんてのは珍しいと思うが。PHSを使っている知り合いもいるが、それではあまりに厳しい。しかし、なんでもかんでもコスト削減の世の中だし、寮にインターネット用の回線なんて整備されていないものなのかも知れない。なんとも世知辛い世の中だ。昔はこうでなかったと聞くが…。一体いつからこうなってしまったのだろう。昔はきっと物質的に豊かで幸せだったのだろうが、現状のこんなことを聞くと、物質的には豊かでも精神的には…なんて話以前に、物質的にも豊かではないと思ってしまう。
豊かさとは何だろう。僕は、それは余裕じゃないかと思う。ただ食べるだけではなく、おいしいものを食べる、珍しいものを食べる。そういう余裕のあることが、豊かさではないかと思うのだ。余裕がなくものだけあるなんて、豊かとは言えないんじゃないか。僕には、そう思えてならない。とは言え、今の社会の中で、それを否定することなんてできない。僕にはそんな力はない。結局のところ、社会の歯車として生きていくこと以外に、生きる術などないのだ。すべての人間を型に押し込めることで、現代社会は成立しているのだから。自由なんて錯覚だ。もし本当に自由なら、自由に義務が付随するはずはない。現代の自由は、いわば義務に制約された自由なのだ。そうだ。勘違いしてはならない。本当の自由ではないから、権利は無制限ではないし、どこまでも義務を要求される。マナーもルールも要求される。必要なこともあるし、必要でないこともある。しかし、ルールを守ること自体がルールなのだ。だから、不必要なルールでも、もしルールが存在するのなら守らねばならない。それは、多くの人間がまとまって生活するために、しかたのない犠牲なのだ。それによって、多くのものを得ているのだから。望むと望まざるとに関わらず、今の人間はこの社会に従属するしか道はない。昔は他の国に逃げるという手があったかも知れない。しかし今は、グローバルスタンダードの名の下に、すべての国が手を携えていこうという時代だ。選びうる選択肢は、決して多くない。もっとも、些細な選択肢は無数にあるのだが。それは、人を迷わすのに十分な数だ。情報過多…。人類を飲み尽くす膨大な情報の波。何が本質かなんて誰にも分からない。きっと、最も重要で本質的な事柄だけでも、把握できないほどたくさんあるのだ。誰にも把握できないのに、すべての人がそれを把握することを要求する。一体誰が、そんな無駄で無意味な要求をしているのだろう。社会の意思?社会に意思なんてあるのか。これこそが神の意図とでも言うのだろうか。