新知庵亭日乗
荷風翁に倣い日々の想いを正直に・・・

2004年07月21日(水) 甲野先生の随感録

甲野善紀先生の随感録に僕の事が出てくるので喜んでいる訳ではなく、
7月20日に書かれた内容に驚いたから、ここを訪れる方々に是非読んでいただきたいと思います。

生きること死ぬこと−日本の自壊(抄)(引用)
一 薄気味悪い笑い
 喩えようもない<薄気味悪さ>に、日本の近代知は到達した。薄気味悪いものに直面しているという意味ではない。歳月をかけて磨かれていった近代知が、その暁に露呈したものは得体の知れぬ<薄気味悪さ>であったというのである。
 昨年の暮に、或る大学病院が告発されるという報道を見た。心臓手術に過誤があったとする遺族側は、その証拠として手術中のビデオテープを入手して居り、その一部が放映されたのである。密室での執刀場面が教材以外で公表されること自体稀であるが、異例なのはこの映像に音声が伴っていたことである。鋭利なメスが身体を切裂き、普段目にすることのない内臓界が大きく映し出される。思いの外乱雑なメスの動きが内臓を抉っていく、どこに過誤があったのか、この際どうでも良いことである。問題はこの手術中の医師団の会話なのだ。<オイ、オイ、そんなことすると出ちゃうぞ><大丈夫、大丈夫イヒッヒッヒッ><いけねえ、出ちゃった、イッヒッヒッ>。僅か数十秒の映像の中で、この<ヒッヒッヒッ>という息を吸い込むような得体の知れぬ不気味な笑いが頻繁に聞えてくるのである。
 もし私に強い嫌悪感が生じたなら、それは単に、人格低劣な医師が、その責を負えばいいと思ったに過ぎぬだろう。そしてこうした劣悪な医師が二度とメスを持たぬように医の倫理を強化すべきであると紋切型の感想を抱くだけである。
 だが、私はその瞬間身が縮み、何一つ言葉が出なくなった。そしてその後重い疲労感と共に、あの薄気味悪い笑いが我が身に纏いついてきたのである。その笑いは画面の向こうから聞えてくるようであって、その実我が身から発しているようにも思えた。それが私に無縁のものであるなどと到底思えなかった。あの薄気味悪い笑いは、確かに私の中にもあり、この国に蔓延しているものであると感じたのである。

(中略)

五 死の風景

 一つの文化を端的に象徴するものとして、誕生と死の風景がある。
 近代国家機構の最大の特色は、市民の凡ゆる自由を認めるということであろう。信仰の自由、表現の自由、しかしいづれの近代国家に於いても決して認められない自由が存在する。それは治療選択の自由なのである。近代実証医学に掛からない病死は、基本的に自殺乃至変死であり、死んだ当人の信念による医療拒絶は裁きようがないとしても、それを看護した家族は自殺幇助の罪に問われる。一体死とは自己の人生の終焉であり、最後の息は子孫に伝える最大の教育である。この最後の息に接して、どれだけ多くの人間が、自らの人生観・生命観・身体観を変革したのか。これこそ文化の伝承の最も重要な瞬間であった。かくも厳粛なる人間的瞬間を、近代国家と近代医学はやすやすと奪い、死を数値に置き換え、遺族に機械の故障箇処を告げ、産業廃棄物のレッテルを貼り、この死を無駄にしない為の部品のリサイクルを奨励するのである。
 周知の通り末期の姿は十本ものカテーテルが差し込まれている。このカテーテルを眠っている時に反射的に取り外さぬ為に、手足をベルトで縛りつけられている老人もいる。医師はこの末期の姿を余儀なくした患者を称して、スパゲッティー症候群と呼ぶのである。
 身体と人生を切り離し、人間の物質化を図り、身体の国家管理を推進する近代国家に於ける死とは、このようなものである。あの<イッヒッヒッ>という不気味な笑いと共に迎える死の光景を、文化と呼ぶものがあるとしたら、その鈍感は嘲笑されるべきであろう。
 文化を自らの手で崩壊せしめ、富と利便を選んだ我国の末路は、この死の風景の中に確かに刻印されているのである。

(引用終)


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