平素に在り

2003年10月25日(土) 何もしない日

一人で暮らしていると楽である。
家族でくらしていると楽しい。

妻は風邪気味で昼寝。
長男が頭痛を起こし、病院へ。
念のためCTスキャンもとった。

家族を持つと、心配事が増える。


11月から仕事に戻れてほっと
している。この休職中で決めた事。

・「余心」・・つまり、心に余裕を持つ事。
       1つの事柄に捉われて没頭しないこと。
       起こったことを素直に受け入れること。

・「自分で出来る事」だけ気にする事。
       自分で変えられない事象は無視すること。

・「今」 に集中する事。
       後悔はなんの役にも立たない。
       後々自分が心を乱すような事柄から逃避する事。

・欲望には限りが無い。欲望の奴隷になるか、自制して欲望を
 支配するか。金はいくらあっても足りない。欲望を自制すれば
 金が少なくても満足は大きい。

・情報過多にならないこと。
       日経3誌を毎日読んでいたが、その悪習を断つ。
       身近な出来事・風景だけ気にしていれば良い。

・経済的窮状ではないので、かといって大金持ちでもないが、
 あくせくしないこと。仕事は入れ込み過ぎないようにやること。

これまで出来なかったことばかりだ。


 大体、人間が自分の力で自由になるものなんてあるんだろうか?
 躁鬱病なんて経験すると肉体ばかりか、心の持ち方も自分の意志
 ではままならない。
 自分の意志に関係なく生まれ、死にたくないのに死んでいく。
 時が経てば老い、健康に気を遣っても病気になる。
 いわゆる生老病死は仏教の四苦。

 いろんなものに執着し、愛する人が増え、そんな人とも
 必ず別れが来る。いったい生とはやはり「苦」そのものだ。

 「刹那主義」とは悪い意味(後先考えず、今さえ充実していれば良い)
 で耳にするが、今の充実なくして何があるのだろう。
 頭の中には、いろんな予定や計画や義務が混在しているが、自分ができる
 のは、この刹那に1つのことである。

 幸い両親も存命であるが、必ず死がくる。愛する子供はいとおしくて
 しょうがないが、やはり順番から行けば自分の死によって別れるとき
 がくる。

 愛や執着が大きいほど、悲しみも大きいのだ。
 だから、刹那を大切に幸せを感じて生きて行きたい。

 「黄泉がえり」って映画をレンタルで観た。
 映画として造りは、大雑把だったが、何故か涙が出た。
 自分にとって黄泉がえって欲しい人って誰だろうとか考えた。

 小学生の時に祖父が自宅で老衰で亡くなった。
 苦しみもせず、最後に微笑んで息を引き取った。
 「泣いた僕ら兄弟に、「悲しんだらおじいちゃんが
 辛くて天国にいけなくなるよ!」って父親が言った。

 婚約者が自殺した時、葬式の焼香も遺族に拒否され
 辛かった。死に顔を見れなかった。
 
 それから・・自分は「人生は短い。悲しんでいる時間は無い。
 と考え、何をするにも極端に走るようになった。
 瞬間・瞬間に燃焼し、輝く事に美を見出すようになった。

 それが、今。少しずつ何でも在るがままに静かに受け入れようと
 思うようになった。
 「こんなに苦しい人生、自分の意志でなく、他力によって
  生かされているとしか思えない。」
 ただ、両親の子供として、妻の夫として、子供の父親として
 出来が悪くても、生きているだけでものすごいことだって
 思えてきた。

 とても、煩悩からは開放されないだろうが、人生は出会った
 瞬間から常に別れの時が近づいているものだって思うと、
 ちょっと違った生き方ができると思うんだ。
 良い意味での「刹那主義」瞬間・瞬間の連続が人生であり、
 過去には戻れないし、未来も予想できない。

 だから、平凡なことを非凡にやっていけばよい。
 金も名誉も要らない。何かを得ようとして「今」を
 生きるより、「今あるもの」をしっかり感じて生きるほうが
 幸せだな・・・・・・・・


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こうたろう [MAIL]

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