Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2008年03月17日(月) 北京オリンピックへの不安



「 人に幸せになってもらいたいと願うなら、思いやりを学びなさい。

  自分が幸せになりたいと願うなら、思いやりを学びなさい 」

               ダライ・ラマ 14世 ( チベット仏教の最高指導者 )

If you want others to be happy, practice compassion.
If you want to be happy, practice compassion.

                            The 14th Dalai Lama



1936年に開かれた ベルリン・オリンピック には、両極端の評価がある。

ある者は 「 革命的な大会 」 と評し、ある者は 「 五輪史の汚点 」 と呼ぶ。


ベルリン・オリンピック は、ナチスが国を挙げて取り組み、大成功を収めたが、「 ナチスの台頭を許す要因になった 」 と指摘する歴史家も多い。

開催地をベルリンにすることは、1932年にバルセロナで開かれた委員会で決められたのだが、それはナチスが政権をとる半年前のことだった。

当初、ヒトラーはオリンピックに関心を持たなかったが、誰かに入れ知恵をされたのか、「 ナチスを世界に認知させる絶好の機会だ 」 と考え始める。

そうなると徹底的にやるのがヒトラー流であり、世界の招待主をはたすのだから、完璧、壮大に準備し、史上最高の大会にすることが命題となった。

ヒトラーの頭の中では、次の1940年は東京 ( 戦争で中止 ) でやるけれど、その後は毎回、ドイツでオリンピックを行うと、本気で考えられていたという。


メインスタジアムは、古い競技場を改築して使用する予定だったが、ヒトラーの一声で、10万人収容の新しい競技場を建てることになった。

しかも新競技場はコンクリートでなく、莫大な費用を掛けて自然石で作られることになり、その横には、大きな野外劇場も併設されることが決まった。

他の関連施設にも莫大な予算が組まれ、レース判定の為に1000分の1秒まで計れるカメラを開発したり、競技に関しても最大の配慮がなされた。

ナチスはすでにテレビ放送を開始していたが、ベルリン市内数ヶ所に設置された街頭テレビでは、延べ16万人が視聴したという記録もある。

マラソン競技のため、メインゲートには巨大な時計を備え付けたり、過去のデータから気候のいい日程を選んだりする工夫も、この大会が最初だ。


また、古代オリンピックの発祥地であるオリンピアから、トーチにて開会式のメインスタジアムまで運ぶ 「 聖火リレー 」 も、この大会が起源である。

オリンピックを盛り上げるための趣向を模索していたナチス党員が、ふいに思いついたというのだが、その “ 名案 ” は、現在も活用され続けている。

ドイツのラジオ報道班は、できるかぎり聖火リレーを追いかけ、その模様を各地に伝えたが、沿道には観衆が詰めかけ、その効果は絶大だった。

この大会では、初めて長編記録映画 『 民族の祭典 』、『 美の祭典 』 という2部作も撮られたが、後日、ベネチア国際映画祭のグランプリを受賞した。

一部からは、ナチスのプロパガンダという評価も下されたが、映画としての完成度は高く、黒澤 明 監督も、この映画に衝撃を受けたといわれている。


このように、ナチスが総力を結集したベルリン・オリンピックだったが、大会の運営が危ぶまれる 「 大きな不安 」 も抱えていた。

それは、ナチスによるユダヤ人の迫害政策や、人種差別政策に抗議する欧米諸国からの 「 ボイコット運動 」 や、開催地変更の動きであった。

これに対し、ナチスは 「 政治にスポーツは関係ない 」 という主張と、外国人観光客への 「 手厚いもてなし 」 によって、苦境を切り抜けたのである。

記録映像では、ヒトラーの開会宣言や、スタジアム全体がナチス式敬礼をする場面も多いが、実際は、暗く緊張したムードで行われたわけではない。

むしろその逆で、ナチスは、オリンピックに来る選手や、外国人観光客らのために、いたれりつくせりの対応をし、観客を大いに満足させている。


ドイツ鉄道公社は、オリンピックに訪れる外国人旅行者に60%の割引をし、宿を確保していない旅客にも、全滞在期間の予約を施した。

ベルリン市内には、オリンピックのために養成された500人の通訳が配置され、親切で公平、寛大なホスト役を見事に務めたという記録もある。

選手村は、目の前に森が広がる緑あふれる環境の中にあり、食事は各国の習慣に合わせ、世界中の料理を食べることができたという。

サウナ風呂も設置されており、夜になると動物の曲芸などのショーや映画が催され、花火や、ベルリン・フィルの演奏まであった。

なにより目立ったのは、「 ユダヤ人と思われる観光客にも、友好的で親切にしよう 」 と書かれた立看板で、一時的に迫害政策を緩めた点である。


長くなったが、かの悪名高きナチス支配下のドイツでも、数々の工夫と努力によって、オリンピックを成功させたのは、紛れもない歴史上の事実だ。

その鍵は、技術を結集した 「 設備投資 」 と、配慮が行き届いた質の高い 「 サービス 」 と、迫害政策の緩和で得た 「 諸外国の評判 」 であった。

5ヵ月後に 「 北京オリンピック 」 を控えた中国だが、いづれの面においても不安な問題は山積しており、解決に向けた努力もみられない。

特に、ここにきて発生した 「 チベット暴動 」 への対処の仕方は、諸外国の反感を買うばかりか、国内に点在する少数民族をも不安に陥れている。

急速な経済成長に浮かれるのもよいが、「 五輪外交 」 の重要性を甘くみていると、将来に大きな遺恨を遺す危惧があることを、知るべきであろう。






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