楓蔦黄屋
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2020年11月18日(水) 乙丑・幸せ

あー、自分も若い頃はずいぶんまわりに許してもらってたんだろーなー、と
この年になって思う。

自分が一番大変だ、と思うのは当然として、
それは他の人もそうなんだよ、ということは
最近身に染みていることだ。

若い頃は人と自分が同じだと思えなかった。
子どもの頃はもっと思えなかったのでその後遺症もある。

みんな自分よりも上だと思ってた。

今は上も下もない、みんなはみんなで自分は自分だと、
少しずつわかってきた。

だから自分も気を悪くしていいし、気をよくしてもいいのだ。
そしてそれを人にわざわざ伝える必要はない。

自分勝手でワガママな自分を
「自分勝手でワガママなんだ」と押し込めるのはもうずいぶん前にやめたけども、
「そうだそうだ、自分勝手でワガママだったわ」と思い出すことを最近覚えた。

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「幸せになりたい」と思ったことがない。

いつでも満たされていたというわけではない。
情が濃すぎてエネルギーがありすぎる家族が
全員それをもてあまして、誰もコントロールする方法を知らなかった家庭に育って
それはもういろいろあった。

世間の不幸なニュースを見聞きして
でもまあ地続きだわな、自分も何かの拍子でそうなるわな、と
思うぐらいにはいろいろあった。

家庭にいろいろあった、という話を人から聞くたびに
それどころじゃねえのよこっちも、と心ひそかに思うぐらいはいろいろあった。

が、
「幸せになりたい」とかそういうことを思ったことはないな、と
折りにふれ思う。

親からもらった遺伝子のおかげでもともとそういう考えかたなのか、
物語というものに触れていたからなのかはわからないが、
「幸せ」とかそういった類いの概念や言葉がそもそも
ストーリーの流れを汲み取るためのただの道具だ、と
当たり前のように思ってたからではないか
と思っている。

「恋人と想いが通じて幸せになる」
「結婚して幸せになる」
「子どもを産んで幸せになる」
のではなく、
「幸せになる、という結末を迎えるためのひとつのエピソードとして
 恋や愛や出産がある」
ということを知っていた。

実際は「幸せ」とは
道を歩いてたらたまたま落ちてた何か、ぐらいのもんだと思う。
それを拾っても拾わなくても、道を歩いている自分には結局さほど影響はない。

だから「幸せ」を目的に据えて行動しない。

だから「幸せになりたい」と言われてもピンとこない。

でも一度だけ、ある日自分の子を眺めていてふと
「ああ、『幸せ』って概念が具現化すると、
 こんな形してて、こんな温度で、こんな感触なのか」
と実感したことならある。

やはり自分の外にあって、
自分とは違う道を行くものだ。

でも、道中で出会えて、本当に嬉しい。






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