2002年07月19日(金) |
Normalization |
私がよく行く、地域の卓球クラブにはさまざまな人がやってくる。 本格的に部活でやってきた人、子育てが一段落ついて、楽しんでやっている人、知り合いに誘われてやってくる人、年代も、目的も、さまざまだ。
そのなかで、Oさんという78歳のおじいさんがいる。 78歳というと、私の祖父と同い年だというのに、とても動きが敏捷で、 はつらつとしていて驚いてしまう。 Oさんには左腕がまったく無い。 従軍記者として中国へ出征した時に失ったと聞いた。
今日、Oさんと卓球をしていたら、小学3年生ぐらいの男の子が、Oさんに近づいてきて、左腕を、まじまじと見上げた。 Oさんは義手をつけていない。
「おじさん、左腕がない」 「ははは、今日は家においてきてしまったんだよ。 家に帰ったら、あるんだよ」
子供好きのOさんは、笑って言った。 その子は、喜んで、 「ほんとに? 手が無かったら、嫌じゃないの? ねえ、どうなってるの」 と、左肩に触れようとした。
私はいたたまれなくなって言った。 「ねえ、おじさんの左腕、どうしてなくなったかわかる?」
私は、どうすればよかったんだろう? その子にどうやって教えてあげればよかったんだろう?
その子が、Oさんの左腕に興味を持ってまじまじと見つめた時、 「失礼なことをしちゃいけない」という言葉がでかかったが、言わなかった。 Oさんはできた人なので、まったく気にした様子もなかった、というのもあるけど、障害をタブー視して、その話題を避けることが、必ずしも優しさではないような気がしたからだ。
ノーマリゼーションということが盛んに言われる。 詳しくはわからないけれど、障害を個性としてとらえ、 「お互いの足りないところは補い合い、助け合って行こう」 ということだと理解している。 障害者だから、健常者だから、と、区別し、 「障害者はかわいそうだから手助けすべき」という逆差別をも越えて、 「ありのままを受け入れて協力し合う」ということだと思う。
男の子がOさんの腕のことについて話をすることを咎めることは、Oさん自身を疎外することになりかねないという気がしたから、その子を叱らなかった。
でも、ノーマリゼーションと無知、無配慮はまったく違う。 その子は、Oさんの障害を面白がっていた。 自分と異なる世界の物に対する、単純な興味だった。
「知らなければしょうがない」のだろうか。 私はそうは思えない。 人に対するやさしさ、思いやる気持ちは、絶対に持っていなければいけない、「知らなかったから」ですまされることではないと思う。
「おじさんの左腕、どうしてなくなったかわかる?」 その子は、目を見開き、しばらく考えて 「戦争?」 と、答えた。 「そうだよ。おじさんは、なくしたくて、左腕をなくしたんじゃないんだよ。」
それから、その子がおじさんにぶしつけな質問をすることはなかった。 でも、私の問いかけで、どれだけのことが伝わっただろうか。 どうやって伝えるのが最善なんだろうか。 わからない。
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