| 2002年11月29日(金) |
村上春樹『スプートニクの恋人』 〜とりあえず〜 |
まだ、読んでいる途中なのですが、いろいろ物思わせる文章で、たくさん書きたいことがあります。 今日のところはこの部分について。
「ぼくと彼女は自然に心をかさねあわせることができた。ぼくとすみれは、ちょうどふつうの若いカップルが服を脱いでお互いの裸体を晒しあうように、それぞれの心を開いて見せあうことができた。それは他の場所では、他の相手では、まず経験できない種類のことだったし、ぼくらはそのような気持ちのありかを損なわないように――口には出さずとも――大事にていねいに扱っていた。 彼女と肉体的な喜びを分かちあえなかったことは、言うまでもなく、ぼくにとってはつらいことだった。もしそれができていたら、二人とももっと幸福になっていたに違いない。でもそれは潮の満ち干や、季節の移り変わりと同じように、力を尽くしたところでおそらく変えようのないものごとだった。そういう意味ではぼくらはどこにも行けない運命であったのだとも言える。ぼくとすみれが保っていた微妙な友情のような関係は、たとえどれほど賢明で穏やかな考慮を払われたにせよ、いつまでもは続くものではなかっただろう。その時ぼくらが手にしていたのは、せいぜいが引き延ばされた袋小路のようなものでしかなかった。それはよくわかっていた。 しかしぼくはすみれを誰よりも愛していたし、求めていた。どこにもたどりつけないからといって、その気持ちを簡単に棚上げにしてしまうわけにはいかなかった。それにかわるべきものなどどこにもないのだから。 そしてまたぼくは、いつか「唐突な大きな転換」が訪れることを夢見ていた。たとえ実現する可能性が小さいにしても、少なくともぼくには夢を見る権利があった。もちろんそれは結局、実現することはなかったのだけれども。 すみれの存在が失われてしまうと、ぼくの中にいろんなものが見あたらなくなっていることが判明した。まるで潮が引いたあとの海岸から、いくつかの事物が消えてなくなっているみたいに。そこに残されているのは、ぼくにとってもはや正当な意味をなさないいびつで空虚な世界だった。薄暗く冷たい世界だった。」
また、村上春樹に代弁されてしまった。私の気持ちを。 一分の狂いもない正確さと端的さと繊細さで。
もやもやして、ぼんやりしていて、自分でもよくわからない私とあの人の関係なのに、この文章でそれがすばらしく無理なく、正しく描ききられていて、ううーん、とうならされました。 この物語の“ぼく”が私で、“すみれ”があの人。
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