| 2002年11月28日(木) |
コンプレックスと優越感 |
コンプレックスは悲しい感情です。 私は自分に向けられるコンプレックスを感じる時、どうしようもなく、居所のない、肩身の狭い気持ちになります。
教師、という職業はどうも人にある種のコンプレックスを感じさせがちなもののようです。 学校の中での出会いなら、教師は自然に存在できるのですが、他の場面で「はじめまして」と知り合ったとき。 職業を聞かれ、「教師です」というと、空気が変わる時があります。 「あ、小学校の」 「いえ、あの、中学校です」 「ふーん…。教科は何ですか?」 「国語です」 「へー、すごいですね。 学生時代国語なんて勉強しなかったなあ」 ほぐれかけた初対面の緊張感が、また高まるのを感じます。
コンプレックスの悲しさは、つねにその底に「他人との比較」と「自分の卑下」が横たわっていることにあるように思います。 他の誰でもない自分なのだから、他の人とくらべようなんてないのに、あえて比較して、自分の欠点をつきつめて、自分を貶めてしまうことは、とても悲しいことだと思います。
もちろん私も多くのコンプレックスを抱いています。 そして、すごく悲しいです。 だから、コンプレックスを感じる瞬間は 「はあ、すごいなあ。 でも、私は私、比べちゃだめだ」 って、言い聞かせるようにしています。
「他人との比較」で、「自分の優位」を確認する感情を、優越感と言います。 優越感ほど愚かで、醜い感情はないように思います。 私は優越感を憎みます。
だって、そもそも他人と自分をならべて、価値の優劣をつけることにどれだけの意味があるでしょう。
なんて、言ったら、 「じゃあ、学校で成績をつけたり、点数を出したり、順位をつけるのはなんでだ?」 って言われてしまうかもしれませんね。 もちろん、点数も、成績も出しますが、それはその人の価値そのものではまったくないのです。 あくまで、その教科なり、観点なりでの到達の「めやす」なんだって思います。 その「めやす」をもとに自分の現状を把握して、励みにするためのものだと思っています。
その人そのものの価値なんて、誰にも測ることなんてできないんです。
“実るほど頭を垂れる稲穂かな” という格言は真理をついていると思いませんか? 「知ること」とは「無知を発見すること」と切り離して考えることはできないのです。 だから、きっと、本当に物を知り、よく経験を積み、尊敬に値する人というのは、「自分の身のほど」をよく知る人だと言えるでしょう。 ことさらに自分の優位を口にする、優越感を強く感じる人は、まだまだ自分の力なさに気づいていない人だ、と私は思うのです。
|