きよこの日記

2004年09月19日(日) 芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』

芥川龍之介は顔が好き。
やさおとこ風で、いかにも肉体労働に向かない感じがいいです。
天才肌なところもかっこいい。

でも、いまいち文章は好きじゃないんだなあ、という思いを新たにしたこの一冊。
「侏儒の言葉」は筆者の本音の呟きです。
ほかの作家のこういう本と比べて、あまり感心しなかったのに自分でも驚いて、なぜなのか考えてみた。

『羅生門』は今でも高校1年の現代文の教科書に載っているけど、細部まできっちりと構築されたあの作品はまったく隙がなく、しかも描写が読み手にとってこれ以上なく親切です。

だから、私は芥川龍之介は、理知的で、精密な文章を書く作家だという思い込みがあったのかもしれない。

ところが、この作品では、まったく記述が不親切です。
言いたいことがわかるような、わからないような。あのことを言っているのだろうか、それとも他のことなのだろうか。真意掴みかねるといった感じ。

つまり、きっと、人に理解されることを目指してかかれたものではないということなんだろうな。
ぽつりとした呟きです。
筆者の遺稿ということもあって、かなりニヒリズム入ってるし。

それでも、気にいったフレーズをいくつか。

「忍従はロマンティックな卑屈である。」

「わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗(いまだかつて)愛読したことはない。正直なところを白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。」

「我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。恋愛も亦完全に行われる為には何よりも時間を持たなければならぬ。ウェルテル、ロミオ、トリスタン、--古来の恋人を考えて見ても、彼等は皆暇人ばかりである。」


タイトルの「侏儒」という言葉なんですが、見識のない人という意味なんですって。
芥川龍之介ってほんとに自虐的だよなあ・・・。

作品タイトルを見ても、『戯作三昧』に『或阿呆の一生』だもの。
そして、「ぼんやりとした不安」を理由に自殺してしまうのだから、天才は大変だ。

凡庸であるということは自分の愚かさにに気づかない才能だな。

同著収録の「西方の人」とは、イエス・キリストのことです。
意外なことに、筆者はキリストに強い関心を持ち、かなり研究していたようです。(そういえば、『奉教人の死』なんて作品もある)
信仰としてではなく、あくまで社会の中でのイエスの立場、彼を取り巻く人のもつ意味、キリスト教信徒の心理などが興味の対象で、ドライな感じで書いています。


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