2004年12月08日(水) |
森永卓郎『〈非婚〉のすすめ』 |
恋愛という極めて感情的な問題が社会制度と社会思想のコントロールによって影響を受けてきたことがすっきりわかりやすく書かれていて目からうろこ。
常識や規範というものは私が思っていたよりも流動的で、私の思う常識も、ごく最近の潮流でしかないことがわかった。 そう考えると、一般常識にとらわれ、そこからはみださないようにという努力にはあまり意味がないな、と思う。
例えば、戦時体制化の日本では兵力増強のために「生めよ殖やせ」の政策をとった。第一に児童手当の支給、独身税の創設、教育費の軽減などの制度上の整備が行われた 。第二には20歳以上の女子労働の抑制、避妊・堕胎の禁止によって行動を規制した。 そして、第三には思想コントロールだった。高等女学校での母性教育や「報国の観念」の養成。
なるほどなあ、と思った一節。 「心理学者のフェスティンガーは、認知不協和理論という理論を主張している。人間は行動と思想の感情を別々〈不協和〉のまま放置できない。だから行動、思想、感情のうち一つのものをコントロールすることができれば、残りのものはそれと不協和を起こさないようにつられてかわっていくというのである。 結婚をして子どもを生まざるをえないように行動をコントロールする、結婚して子どもを生むことが、国に報いることであり、女性としての幸福なのだと思うように思想をコントロールする。そうすれば、残った感情は簡単に道連れになり、夫や子どもへの愛情が湧いてきてしまうのである。 当時の結婚は見合い結婚が三分の二である。決して恋愛に基づいた結婚ではなかった。それにもかかわらず、ほとんどすべての夫婦が配偶者に、子どもに愛情を感じて暮らしている。そう思わなければ、そうやって自分を正当化しなければ、人間はやっていけないのである。」
これまで私は不思議だった。 一度結婚をしたら何十年もその人を愛し続けるということは決してたやすいことではない、むしろ、稀有な形であるはずなのに、社会通念では常識だと思われているのはなぜなのだろうか。 自分の生活が不協和を起こさないようにって心がバランスをとっていたということなんだ。
さて、そういうわけで、結婚、恋愛、家族形態の常識は常識ではなく、望ましい新しい形へと移行していくだろうと述べられています。 それが〈非婚〉というスタイルなのかどうか。 その選択もありますが、むしろ多様化を示唆しています。 収入、価値観などによって、個人で選び取っていく。 経済政策上有利なのはどのスタイルかについては、本当に詳しく書かれているので、ぜひご一読を。
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