耽溺。耽溺こそがその感覚に相応しい言葉なのか。
狂乱。狂乱こそがその行為に対応した形容なのか。
投棄。投棄こそがその事象に応対した語彙なのか。
奇蹟。奇蹟こそがその深甚に合一した用法なのか。
八万四千の流派が伝達する知識と、智慧を不立文字とする1つの別派。
超常現象を不立口頭とした諸子の第一位と、抹殺され順位外まで落ち込んだ功利主義者。
排一神的字義主義者の悩む「悪の問題」と、神秘主義者すらも包摂する「善の問題」。
幾万通りの言葉の、形容の、語彙の、用法の奥底で実存性を与える、その感覚。
その感覚。
まさに、その感覚。
与えられた機能、による感覚。
永遠の命が欲しい、11次元を観たい、精神のみの認識が欲しい。
欲しい、欲しい、欲しい、のだ。
永遠の命がないゆえに、4次元から飛び出せないがゆえに、物質によって司られているがゆえに。
大いなる、巨大な、膨大な、気絶しそうな矛盾ではない。
それすらもまた1つの、そう与えられた機能、による感覚の1つに過ぎないのだ。
春暖かく柔らかい日差しが花に入り、白肌に薄桃がほだされるように。
連れられるように新緑が枝葉や水面などに鮮やかに咲き乱れ、じきに薄桃色に儚さを与えるように。
執筆者:藤崎 道雪