いつからだろう、死、からしか世界が観えなくなっている。
人間の生産活動も、生殖活動も、自己保存活動も、社会体制や文化文明、学術智識、他人他者との関係も、それら全てが。
死、という色眼鏡がただ唯一のコンタクトレンズとして、この抉(えぐ)り出せる両瞳から抉り出せなくなった。
いつからだろう。死、からしか世界が観えなくなっている。
私が私を一番大切にしなくなった。
私の自己の欲求や衝動や構築した理性や自我までも、全体に共通する死の圧倒力によって踏み潰した。
だから、私が、世間一般的な意味での私を大切にしなくなったのだ。
その奥に隠れるように存在し、死、として世界を見つめる「私」が、気ままに、何時でも私が積み上げたものも私自身も破壊しつくす。
だから、世事に拘(こだわ)りなど無くなった。だから、他人や他者に褒められるようになった。どうでも良いのだから相手に合わせて上げればいいのだから。
死んでしまえ。死んでしまえ。死んでしまえば、世事など魂よりも軽い存在になる。葬儀に流す涙の原因になるのが精々なのだから。さらに重い魂も不可知の世界に消え去ってしまうのだから。
私が私を一番大切にしなくなった。
「私」という観念の結晶からしか発想出来なくなったから。
「私」という観念の結晶しか残っていないのだから。
観念の結晶へと刺激を与えるものは、もう、肉体の苦痛しかなくなってしまったのだろうか。
肉体的な死を超越し得ない「私」という観念だけの存在を認めない仏法も破壊していくのだから。仏法が破壊された五重塔の墓場に、物質をもった無名の小石を1つ1つ投げてきて、こんもりと一山(ひとやま)の新しい墓らしいものが出来上がった。質量と運動量をもった大洪水によって押し流される小石の墓が。
私の後に残る唯一の、私の分身。
追記:RAMJAの「分身」の歌詞に刺激を受けました。
執筆者:藤崎 道雪(校正H17.5.18)