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「 娼婦と橋 」
2006年06月03日(土)

 新緑の木立(こだち)の間を抜けると、緑の絨毯(じゅうたん)の上を風が吹いていました。
 あと、半分で家まで帰れる、と思ったのでした。
 街まで急用で行ったので、帰ったら鳥を一羽潰(つぶ)してご馳走を作ろうと胸をワクワクさせています。
 テクテクという足音は、貰ったお金が多かったので、家族も喜ばせてあげよう買った女性物の上着と子供のオモチャが、はやくはやく、と囁(ささや)いているようです。

 川幅2メートルでゴツゴツの岩ばっかりで普段は水がちょろちょろとしか流れていないアーチ型の石橋まで近づいてきました。
 その橋の上になにやら人が居るようです。
 女性がいるようです。
 ここ10年は山賊が退治されたので、この橋は安心して渡れるようになったのですが、昔は父親に連れられて街に行く時はよく迂回したものでした。
 まあ、女性一人だからと近づいていきました。

 もう、女性の髪留めが赤色かな、と分り出す頃、真剣な顔で川面を眺めているのが分りました。
 それでも、どこか気(け)だるい感じが全身に残っていて、さっと女性は村で生活していないのも伝わってきました。
 村の女性は、ボコボコとしていてガハハと笑いながら、キツイ農作業も大変な子育てにも動じない強さがあるからです。
 橋の手前から砂利の坂になっていて、ザッザッという音をさせると、その人は、はっ、とこちらを一瞬見て、そして恥ずかしがるようにまた、水面の方を眺めました。

 「こんにちわ、いい天気ですね」と声をかけました。
 「ええ、そうですね」と水面を眺めたままでした。
 「どうかしたのですか?」と続けると
 「・・・はい。もう生きているのが嫌になったのです」と答えました。
 「・・・それは、どうも・・・」 答えに詰まりました。
 「だから、いっそのこと、4mくらいですが、ここから身を投げるか、山の方へいって動物に食べられるか、と思い悩んでいたんです」と急にこちらを向き直しました。

 それから話を聞くと、旦那さんが賭け事で大きな借金をして、それを取り返すために出かけたのですが、一向に帰ってこなくて娼婦になったそうです。けれど、借金は増えていくばかりだし、何度もおろしているし、旦那が帰ってきても合わす顔もなく、子供も産めなく、年老いてお客もつかなくなってきた、という事でした。
 私は彼女に何と声を掛けてあげたら良いのでしょう。
 あるいは、彼女を放っておけばいいのでしょうか。街には何十人という乞食(こじき)がいました。家族全員で物乞いや盗みをしていたり、しょうがなく山賊になる若者もいました。それが当たり前なのです。人間は数千年間ずーっとそうやって暮らしてきた、と街の先生が言っていました。だから、来世では食べ物に困らない、美人や美少年のいる、お酒も飲み放題の天国に行こう、と奨められたりもしています。

 私は彼女に何と声を掛けてあげたら良いのでしょう。
 このまま彼女を連れて帰れば、借金取りが村まで探しにくるかもしれません。彼女はもしかしたら山賊の手先かもしれません。
 そんな気持ちが伝わったのか、彼女はふっと振り向いて橋の膝までしかない両壁から飛び込もうとしました。
 とっさに両手で彼女の両方の二の腕を掴(つか)みました。
 そして自然と迷いが消えて言葉が出てきました。

 「私だってあの緑の丘を越えたら、山賊が出てきて殺されるかもしれない。家に帰れば大好きな妻や子供が不慮の事故でなくなっているかもしれない。けれども私は家に帰るよ。あの丘を越えていこうと思っている。この橋から見えているあの木立から緑の丘までの世界が、全てじゃない事が分っているから。だから、貴方も今見えている世界以外の世界を見てくださいな。あの緑の丘を一緒に越えていきましょう。苦しい事が待っているかも知れないけれど、嬉しい事も待っているかもしれないから」
 と声を掛けたのでした。
 
 その女の人は、ワーッと泣き出して、数分間泣いていました。
 そしてしゃくりあげるようになった頃、私は独りで歩き出しました。
 10歩ほど数えながら歩き、振り替えしました。
 なんともなんとも、喜怒哀楽、どれにも入らない表情で彼女はこちらを見ていました。
 そうそう、暴力の酷(ひど)く農作業もしない夫がやっと酒の飲みすぎで死んだ質素なお葬式で、50歳を過ぎる奥さんが同じような表情をしていました。
 「さあ、こないの? それともそこにいる?」と声を投げかけました。
 「はい。」と自分自身に言い聞かせるように彼女はこちらへ向かってきました。
 
 


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