学校教育、高等教育、近代合理主義、社会の中で教えられてきた意識的な範囲の合理化
はっと気がつくと、無意識的な行動にもう1つの合理性が見えてきた
禅や古神道という私の無意識的な範囲にあるもう1つの合理性
その無意識のプールへ10mもの高飛び台から飛び込もう
プールの底が見えていなくても、水深1mしかなくて脳挫傷になっても、それでも飛び込んでいこう
高飛び台の上が怖いからではない 吹きすさぶ強風が恐ろしいからでも、冬明けの豪雨や晩秋の濃霧、カンカンの真夏の太陽、シトシトとした梅雨で台が滑るのが嫌いだからではない
そこにプールがあるから
無意識の合理性に、これまでの私が喰われるのかもしれない
水面に上がって来れずに半魚人となってプールの中で生活するようになるかもしれない
そこに幸せがある
戸惑いながらも身を浸してみよう
溶けてしまう私ならそれはそれ
私の望みは飛び込むこと
幸せではなく望みこそが私なのだ
いましかない いまこの老いの切実さが後ろの階段からきた いましかない
こんな高台の上で老いと同居するなんてまっぴらごめん
居心地はいいけれど10mの高飛び台から飛び込もう
全身骨折で脳挫傷で大量出血で砕け散るのなら
溶けてしまう私ならそれはそれ
幸せではなく望みこそ
ヒュン