作品を書き残すことで未来に希望を託した、新美南吉
未来の名声に縋り、現在を相対化して、死の恐怖を受け入れた。
では、一般の庶民はどうなるのだろう。
では、作品を生み出せない芥(あくた)の塵屑(ちりくず)のような表現者達はどうしたら良いのだろうか。
どうやって、死の恐怖を受け入れられるのだろうか。
私には無理である。
透徹してみれば、私の作品は新美南吉に遠く及ばない。
死後に記念館など出来はしないだろう。
そもそも、一般庶民受けする作品ではない。
その自堕落で、大した作品の作れない、それでいて死を考えないで過すほど、安穏とはしていない。
中途半端、そのものだが、そもそも多くの人間は中途半端だ。
それでいて見通す目も持っている。
この嬉しい恵まれた毎日に感謝して、本能とそれによる感情をはき出して、何時か停止する。
未来を考えず、周りを考えず、場所も考えない。
そうした忘却に似た境地に、感謝の言葉で逃げ込むしかないのだろうか。
そしてまた引きずり出され、逃げ込み、引きずり出され、逃げ込む。
いつか、肉体が停止するまで。
いつか、肉体が精神を絶対的に引きずり出す、その時まで
けれども、この構図を忘れることは出来ない。
感謝の先を、今日一日が与えられたこと、こうして眠りにつけること、ご飯を三食食べられること、祖国に生まれたこと、神々の恵みによって生かされること、としても
けれども、絶対的自我のあり様を忘れることが出来ない。
人格の陶冶が足りない
判ってはいる
けれど、人格の陶冶の終わりはない
判ってはいるかい?
人格の陶冶が足りない、という言葉は、忘却にも似た境地に逃げ込む言葉でしかないのだよ
見渡してみれば、世俗には、世俗から遊離する宗門には、そうした言葉が溢れている
忘却にも似た境地、それは新美新吉の希望の信託と表裏一体でしかない
現在を唯一に純化することで生まれる現在の永遠性、
現在を未来へと純化することで生まれる未来の永遠性、という表裏一体でしかない
現在の、この肉体に拘束された絶対的自我を永遠性に置き換える、という想像の産物でしかない
本当にそれで死ねるのだろうか
本当にそれで活きれるのだろうか
付記:ごん狐など新美南吉の仏教性に心動かされて