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「 絶対的自我19 −新美南吉と忘却にも似た境地− 」
2015年07月01日(水)


 作品を書き残すことで未来に希望を託した、新美南吉

 未来の名声に縋り、現在を相対化して、死の恐怖を受け入れた。

 では、一般の庶民はどうなるのだろう。

 では、作品を生み出せない芥(あくた)の塵屑(ちりくず)のような表現者達はどうしたら良いのだろうか。
 
 どうやって、死の恐怖を受け入れられるのだろうか。

 私には無理である。

 透徹してみれば、私の作品は新美南吉に遠く及ばない。

 死後に記念館など出来はしないだろう。

 そもそも、一般庶民受けする作品ではない。

 その自堕落で、大した作品の作れない、それでいて死を考えないで過すほど、安穏とはしていない。

 中途半端、そのものだが、そもそも多くの人間は中途半端だ。

 それでいて見通す目も持っている。
 
 この嬉しい恵まれた毎日に感謝して、本能とそれによる感情をはき出して、何時か停止する。

 未来を考えず、周りを考えず、場所も考えない。

 そうした忘却に似た境地に、感謝の言葉で逃げ込むしかないのだろうか。

 そしてまた引きずり出され、逃げ込み、引きずり出され、逃げ込む。

 いつか、肉体が停止するまで。

 いつか、肉体が精神を絶対的に引きずり出す、その時まで

 けれども、この構図を忘れることは出来ない。

 感謝の先を、今日一日が与えられたこと、こうして眠りにつけること、ご飯を三食食べられること、祖国に生まれたこと、神々の恵みによって生かされること、としても

 けれども、絶対的自我のあり様を忘れることが出来ない。


 人格の陶冶が足りない

 判ってはいる

 けれど、人格の陶冶の終わりはない

 判ってはいるかい?

 人格の陶冶が足りない、という言葉は、忘却にも似た境地に逃げ込む言葉でしかないのだよ

 見渡してみれば、世俗には、世俗から遊離する宗門には、そうした言葉が溢れている

 忘却にも似た境地、それは新美新吉の希望の信託と表裏一体でしかない

 現在を唯一に純化することで生まれる現在の永遠性、

 現在を未来へと純化することで生まれる未来の永遠性、という表裏一体でしかない

 現在の、この肉体に拘束された絶対的自我を永遠性に置き換える、という想像の産物でしかない

 本当にそれで死ねるのだろうか

 本当にそれで活きれるのだろうか


付記:ごん狐など新美南吉の仏教性に心動かされて 

 


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