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「 絶対的自我26 −心の階段を降りていく 森信三と孔子− 」
2015年12月30日(水)




広い空き地に、ぽっこりと階段の入口が開いている。

おそるおそる覗き込むと、らせん階段が降りてあり、底が見えない。

広い空き地は、私の心が社会生活を営むための場所であり、ぽっこりと開いた階段は心の奥底のようなものである。

階段を数段降りれば、広い空き地がスケスケのビニールのように見える。階段から見上げれば、社会生活を別の角度から観える。降りれば降りるほど範囲が広い空き地を見渡せる。

階段の底は靄がかかっていてよく見えない。決して暗くて見えないわけではない。

譬(たと)えるなら、階段を降りることは思索である。階段に感謝を置くことは道徳である。

森信三は「人間に生まれたことに感謝すること」を道徳の出発とした。

相当に深い階段に感謝の印を置いてきたのである。そして、広い空き地から階段を眺めて、あの場所まで行くことが出来るよ、と私達を導いている。

思索が苦手で靄でパニックを起こしてしまう人は、森信三の感謝まで降りていくことは叶(かな)わない。

逆に、感謝を置かずにただただ階段を降りる運動が好きな人もいる。

これらは、孔子曰く「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」と類似した意義である。


付け加えるとすれば、相当に深い階段に感謝を置いてきたとして、そこが思索の終わりであると錯覚してはならない、ということである。階段の周りの靄で地上の見える範囲は広くなるが靄でぼやけてくる。それは恐ろしさに耐えなければならない。

その恐ろしさに負けて、もうここが階段の最も下である、という風に思いこんでしまいがちである。

また、空き地や階段の上部から「もうそこでいいだろう」という他者の声、愚かであろうとする自分の声が聞こえても来る。

しかし、階段の最も下である、という風に思いこんでしまっては、広い空き地しか観ようとしない、目先の利得、損得だけしか考えていない人々となんら変わらないのである。


付け加えるとすれば、階段で到達した最も下の段だけが私であると考えるのも危うい。広い空き地も到達するまでの階段も、また私なのである。

それは、私の心が、眠気、老い、病気、死などによって引きちぎられるからである。言い換えれば、私達の思索は私達の肉体によって広い空き地に戻ることを強制されるからである。

さらに、眠気は瞬間に、老いはゆっくりだが徐々に、病気は長期間、死は永劫、降りれなくする。


付け加えるとすれば、階段を全て感謝で埋め尽くしてはならない。感謝は喩(たと)えるなら、安住できる家である。大変居心地が良い。

階段を全て感謝で埋め尽くせば階段を降りるのが、家から家の移動となってしまう。

感謝で埋め尽くさなければ階段を降りるのは空き地を道にして降りることになり、速く降りて、底深くまで到達できるようになる。

感謝で心を満たした人生は大変居心地が良いが、同時に深い思索で広い世界を冷徹に見通すことが出来なくなるようなものである。

もちろん、家から家、あるいは道に生えた数々の草や花などで道草をくうのは人生を豊かにしてくれる。

けれども、道草は道によって生まれる。


最後に付けくわえるとすれば、私達はなぜ、階段を降りようとするのだろうか。

1つには、居心地のよい家に安住したいという心の動きを愚かと見るからである。生物の進化から反証不可能な仮説ができるであろう。

1つには、先ほど述べた、階段の最上段に引き戻す肉体と心のあり様(絶対的自我)に気がつくからである。他者の個体死を自らの肉体にあてはめると実感できるであろう。

1つには、前の二説を全体とした場合に構築されうる概念(全体性)を選択したからである。


老いてますます深く階段を潜れなくなってきた。

「もう、ここでいいだろう」

という声は上から大きく聴こえてきている。


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