苦しい、苦しい、苦しい。
心の臓が締め付けられている。
時が流れている。
私は全くなくなる時まで、そのいつかの時まで、着実に向かっている。
だのに、眠りにつかなければならない。
あなたの命とは風船の空気のようなもので、風船の膜が破れても空気はかわらない。
大いなる生命に戻るだけです、と仏教者はいう。
ならば、それを理解するものと理解しないものとが何故判れるのだ。
いや問い方を間違えた。
ならば、それを理解する私は生きているとは言えないのではないか。
どうして大いなる生命と異なる、欲望や理性や、そしてこうした枠組みを検討する思考が備わったのか。
昆虫と私の差は単なる膜の差だというのか。
私は限っている。自然科学の方法論から、人間の知識の本質が決定されることを。
だから、人間は決して万能の立場に、創造者の立場に立って考えられないことを。
仏教者が語る大いなる生命を捉える万能の立場に、創造者の立場には決して立って考えられないことを、人間の限界としている。
私が宗教者になって、世界を捉えられない根拠でもある。
私からすれば、万物への感謝、大いなる生命を語るのは、仏教者の蒙昧(もうまい)でしかない。
私もその蒙昧に安住して胡坐(あぐら)をかき、ごろんと横になって、居続けたい。
それが出来ないけれど、明日の労働のために、ごろんと布団に横になろう。
死へと向かう道と知りながら、なんの防御壁も築かぬままに。
そのままに。
その当事者意識が私の唯一のものなのだから。
宗教の知識にも、不立文字にも、権威知識権力金銭家族名誉祖国愛道徳地位にも、頼って当事者意識から遠ざからないのだから。
ただただ、裸のままで、死の前に立っていよう。