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「 絶対的自我27 −大いなる生命という蒙昧(もうまい)− 」
2015年12月31日(木)



 苦しい、苦しい、苦しい。

 心の臓が締め付けられている。

 時が流れている。

 私は全くなくなる時まで、そのいつかの時まで、着実に向かっている。

 だのに、眠りにつかなければならない。


 あなたの命とは風船の空気のようなもので、風船の膜が破れても空気はかわらない。

 大いなる生命に戻るだけです、と仏教者はいう。


 ならば、それを理解するものと理解しないものとが何故判れるのだ。

 いや問い方を間違えた。

 ならば、それを理解する私は生きているとは言えないのではないか。

 どうして大いなる生命と異なる、欲望や理性や、そしてこうした枠組みを検討する思考が備わったのか。

 昆虫と私の差は単なる膜の差だというのか。


 私は限っている。自然科学の方法論から、人間の知識の本質が決定されることを。

 だから、人間は決して万能の立場に、創造者の立場に立って考えられないことを。

 仏教者が語る大いなる生命を捉える万能の立場に、創造者の立場には決して立って考えられないことを、人間の限界としている。

 私が宗教者になって、世界を捉えられない根拠でもある。

 
 私からすれば、万物への感謝、大いなる生命を語るのは、仏教者の蒙昧(もうまい)でしかない。

 私もその蒙昧に安住して胡坐(あぐら)をかき、ごろんと横になって、居続けたい。

 それが出来ないけれど、明日の労働のために、ごろんと布団に横になろう。

 死へと向かう道と知りながら、なんの防御壁も築かぬままに。

 そのままに。

 その当事者意識が私の唯一のものなのだから。

 宗教の知識にも、不立文字にも、権威知識権力金銭家族名誉祖国愛道徳地位にも、頼って当事者意識から遠ざからないのだから。

 ただただ、裸のままで、死の前に立っていよう。


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