きのうの私へ
むかし厳寒の山間で働いていたころ、長い冬を終えて様変わりする景色に縮まった心を癒され、慰められた。遺り場のない刺々しい感情も、美しい自然ののどけさに触れると和らいだものである。そういう人間の浅知恵を超えた助け舟が都会には少なく、雑木林を歩くうちに何かしら答えを見つけるような時間もなかった。それなりに学び、それなりに充実していたものの、何か大事なものが欠落していると気付いたときには不惑の年齢になっていた。不思議なことに、わたしは二十年の周期で死ぬのが怖くなったり平気になったりするので、ちょうど心の季節の変わり目にいたのだろう。 人生の四季でいえば秋にいるわたしは、どうしてか苦しかった春や奔放に生きた夏を思い出しては、よくいまの自分があるものだと感心したり、かつての無分別に溜息をついたりする。いまさら過ぎた季節のことをとやかく考えてもはじまらないが、これから迎える季節の指針にはなると思うので、半ば振り返り、半ば前を見ている。身にしむ秋を生きていても、ありがたいことに小さな春は毎年巡ってくるし、逞しい命の甦りを見ると、こちらも若返る気がする。鶯の初音はその先触れのようで、すがすがしい。 あらゆるものが陽射しに向かって活動しはじめる春は、わたしにとって憂鬱から解き放される季節である。心なしか物思いにも光が射して、明るいほうへ向きはじめる。そう思うことで、ひ弱な自分と大胆な自分をつなぐ蝶番を締め直している。春に限ったことではないが、小さなきっかけが人を強くもすれば弱くもすることを考えると、季節の力を借りて立ち直るものもあるかと思う。たとえば蕩けるように暖かな陽射しの下で立原正秋を読んだら、若い頃の刃物のような感情とも折り合いがつくかもしれない。
乙川 優三郎
そして 娘へこの文を贈りたい
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