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こんにちはー・・・深夜3時です。 昨日は熱を出してたいへんでしたよー。しかし、こんどは歯が痛い。なんつーか、咽が腫れて歯茎まではれているという・・・・。あわわ。 ケーブルテレビでアメリカのウオンテッド番組をよく見るんですが、実際番組を見た視聴者からの情報で犯人が掴まったりするんだから、こういう番組もありだなあと思います。しかし、おもしろいのは「さあ、皆で犯罪者を追い詰めましょう!」「皆さんのおかげで犯人逮捕が出来ました!」と、視聴者を巻き込む司会の巧みさですね。なんつーか、通販番組の司会者に似てる・・・・。アレはやっぱり、司会の完成形なのか? まあ、ともかくそんな番組を深夜に見たりしてたもんだから怖い夢とか見ちゃって、あわわわ。夢の中でピンチになった(わりと本人も悪いんですがねえ)人は助かるんですがねえ。助けに入った人の言ったセリフが「そういう番組も作るのさ」でした・・・。そこでハット目がさめた。変なの・・・。 うふはー・・・・。世界が平和でありますように。 なんていうか、引きこもりなんで話すこともあまりないんだよね。 しかも、口を開けばいらないこといって不評をかうっていうかさー・・・。だめねー・・・。一言も二言も多いし、さー・・・・。偏見に溢れてて、思い込みが激しく、決め付けが激しいみたいね。妹のはき捨てるように言う言葉を聞くかぎりね。 まあー・・・大学の保健室でカウンセリングを受けるも、もう挫折ですよ。 なんていうか、くるしいのかなあ・・・。 保育園に私いってたんですけどねー・・・・。その時のクラスメイトは不登校や問題児、学校になじめず海外に行ったりと・・・のちのち、おかしくなってます。それを聞くと、自分もそうなんだとおもっちゃいますなあ・・・・。妹のクラスは八王子東に四人、私立校もほぼ上位という20名の確率から言って、ものすごい高確率で結構りっぱにやってるそうで・・・・。そうじゃない人は形見が狭いとか。 赤ちゃんのときもあんまり泣かない子が多いクラスだったみたいー・・・。 うちなんて、家庭内暴力な兄貴を持つ子が怒り狂うとテーブルを投げるなどと言う子どもにはとうてい宜しいとはいえない環境でしたねえ・・・。そいつによく泣かされたっけ・・・アイツもワガママ、わたしは甘ったれでうまがあわなかったんだろうね。ホントよく泣いた。暗いところでじっとしてた。 「サバイバー」とか言う番組・・・。海外版はわりとおもしろいね。日本版は「理想のサバイバー」がどうのいってるやつがおおくてうざいですねえ。信念なんてどうでもいいじゃん、結局生き残りゲームなんだしー。生き残る奴が生き残るんだよー。別に生き残ったからって人を蹴落としてるのは変わりないんだから、良い悪い関係ないんじゃないのー。良い悪いうなら「私はお前が気に食わない!」で、いいのに考えとかやり方とか理想とかそういうのを押し付けあう様は嫌な感じですねえ。しかも、なんつーか気にくわない奴を排斥してくゲームなところが別に難しくもなんともないゲームでやんの。残る事考えたら大変だけど、蹴落とすぶんには苦しむも何もないじゃん、始めから「仲間」じゃないんだし!皆敵だし?、ああ。仲間意識が育つと想定されてるんだろうけど、そうでもないよなあ、ばつは悪いけど、外に出てまで一緒にいたいやつ等でもないだろうしー。そんなことより、あの番組のテーマはサバイバーをあがめる番組じゃなくて、「文明っていいよね!!」っていうテーマだと思うんですよね。「人間は一人では生きていけない」って良いたいんだと思うんですよね。で、サバイバルがすぎると独りぼっちになりますよ―って言う警告ね。もっとつめちゃうとー。やっぱ不満なくやるにはその場にいる人達全体でいいようにする事を考えるべきだと。アレを見て、サバイバーに憬れるのは結構だけど、「賞金獲得」と「生き残り」は別の命題だと思いながらサバイバーになって欲しいものです。ゲームなんだから。「生き残り」からはいる人は「自分を試したい」とか生ぬるい事いってる場合じゃないと思うんですよね。自分がどれだけ残酷になれるかを考えた方がいいと思いますよ。「皆で生き残るゲーム」じゃないんだから?しかし、賞金獲得ゲームをサバイバーとかいって野生世界で「生き残り勝負」に見せる番組は巧みですねー・・・・。つーか、人間観察番組でなんともいえない。映像のアングルはヤラセマンマンの時もあるしねー。 一時期みてただけなんでー。あんまり、書いた事に目くじら立てないで下さいね 「ファイナルアンサー」もアメリカに元があるけど、みのもんたはアメリカにいないよなあー。でも、やっぱ向こうでもやたら存在感のありそうな押しの強そうなおじさんがやってた・・・。ルールもまったく同じー。 あー、馬鹿そうな車雑誌にはかならずといっていいほど横に水着かミニスカートのお姉さんが立ってますね。あの手の雑誌を買う人は、車と女にしか興味はないと・・・・思っちゃう・・・・。なんつーか、車だけなら車「だけ」とは思わないのになあー。それにしても、もっと不思議なのはそういう雑誌のお姉さんは、必ずと言っていいほど微妙に垢抜けない服装だけど露出度が高いようなー・・・・。もしくは、化粧が濃いか退廃的なよう艶さはあるが健康的とはいえない感じに撮影されてる気がする・・・・。あんなんだあれ。そういえば、週刊ポストとかもそうだねえ、美人なんだけどやたら不健康そうな不自然なポーズの表紙だね。なんていうか、幽霊みたい。妄想も大概にしとけ。なんか、スポーツ新聞の妖しげな連載小説で爆笑したのが「お嬢様」のお笑い描写。なんつーか、ミニスカートでラベンダー色の服をお召しになってるのはいいんですけどガーターベルトが見えそうだったり、「ブラ(ブラだって!ぶー!!)の紐が」とかいって肩から落ちてるの・・・・なんていうか、公衆もつどうレストランでこんな事言う女はお嬢様じゃありません。あと、なによりも面白かったのが2×歳になって今時「カチューシャ」をしている人がいるでしょうか・・・。「カチューシャ」ですよ?なんか、どッかの国の言葉で「お嬢さん」って意味だからって、「カチューシャ」はないだろ。その想像を絶する「お嬢様」は黒髪に「カチューシャ」をした「清楚な令嬢」というふうに作中では言われてますが、太もももあらわなスカートを穿き、ガーターベルトをし、ブラの紐がどうのとのたまい、「カチューシャ」をしているんですよ。連載小説なので、きっとそのうちうまうまといくのでしょう。そして、「この清楚な令嬢がじつは・・・」とかいう妄想がまっているのでしょう。もともと、女は淫乱だった。で、自分のした事を棚上げにするのでしょう。罪悪感を造らないようにする手段だね!ばーか!もっとムカツクパターンは体で女を慰めてやったですねー・・・原因にかたがつくようにしてやれっての!しかも、そういう逃避は止めてやるべきだろー・・・。お安いいい男ですことー。 なんかー催眠術をかけてもらって、その間に自分が自分の前世を話すとか言う不思議体験を研究してる人がいるそうなんだけどー。私もかかってみたいものですー。でも、虫とかだったら虚しいかなー。一応そういうことはないのだと思うんだけどー・・・話によるとー。でも、どこの国の人なんだろう・・・・。 博物館実習のときの学芸員のひとは前世がエジプトの記録係だったらしく、その診断を受けたのもエジプト、博物館では収蔵品の記録係石造の手と自分の手がそっくり、そして偶然いった村でものすごいデジャブに襲われたなど奇跡体験アンビリバボーなことに出会ったんだって。で、今も同じような事してる。っていってた。 いいなあー・・・そんな体験してみたい。 でも、なんつーか奴隷だったり、犯罪者だったりしたら途方にくれるな・・・・。 とりあえず、同じ事しないようにするのに精一杯そうだもの。 自殺者とか虐殺の被害者をかも嫌だなあ。あわわわあっわわわ。 悟りってのは死ぬのが平気になることじゃなくて、生きることが平気になることなんじゃなかろうかなあって正岡子規がいったらしい。でも、生きるのが平気になったとはいってないみたい。でも、病床にあって死と二つ枕な人だから思い至った事だよなあー。生きることが平気になる。確かに一番安心だなあ。死ぬのが平気でも生きることは苦しいだろうけど、生きることが平気なら死ぬのも平気だよたぶん。生きてるといつも死や老いや貧困に追い詰められているんだろうから、生きるってことは恐怖の克服なのだなあー。死・老い・貧困以外にも持てるものほど捨てられないものが多くて、その欠損に怯えるのだなあ。罪を犯す者は、常に心が満たされず邪な妄想に走り欲望を満たそうとするけれど、方法が間違ってるから飢えがホントの意味では癒されず、常に飢えているのだなあ。まあ、そんなせっぱつまったことじゃないにしても、生きることが平気になるのは容易ではないことからしても人間なかなか長生きでもしないとホントのところは解からなそうだなあとおもいますなあ。これってやっぱり仏教思想? イスラム教もキリスト教も「今(日)を生きる」の気概を感じるのが、「あなたは明日のことを決めたりしてはならない」(ちょっと、違うと思うんだけど馬鹿なんだなあ、とおもって許してください)とかいうイスラムの言葉と、キリスト教の「明日のことは明日が思い煩うであろう」とか言う言葉。なにか両方とも明日とかいってるけど基準は今日なんだよねえー。そもそも、今日を精一杯生きれば物事の摂理として明日があるはずだよ。必ずとはいえないけどー、そう、必ずとはいえないから「今日」が基準なんだなあー。一期一会精一杯生きること、それは必ずあるとは限らない明日の事を思い煩うのではなく、あるべきようになるように平安に生きることなんではないかなあー。 なんつーか、過酷でもなんでもないところでこんな事いってたら、やたらのんびりしてるだけの人だけど、苦しいときこんな気持でいられるように。って事なんではないかなー。でも、信じる事で安心できる気持はわからないでもないし、それが形としてかなり教理ってかたちにしても在るってのは羨ましいやら、そうでもないやらー。自分は何かを信じてるような気がするけど、それが何かはわかんないし、それでいい気もしてるー。 信じる事が救いなんだから、疑いを知らない頃には神様は身近でしょうねー。 大人になっても何となく何かをしんじてたり、信じたいと人は思いつずけるんだから神様はなかなか直に遠ざかるものでもないんではないと思いたいところ。 あー・・・
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