また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

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2004年02月19日(木) 「個性」 試案

 今回灰谷健次郎の「兎の眼」や養老孟司の「バカの壁」を読んで思ったことを書いてみる。それは個性についてである。きょうはあまりまとまらないので、思いつくままに書いていく。



1、個性とは

 個性という言葉を特別のものとして扱わないというところからはじめる。また、同時にさまざまな文化、民族などの違いによって生じる、個人というよりは集合的なものとして感じうる特性も、ここでは最終的に個人レベルに還元し個性として扱う。

*日本人は議論が下手だ → この人は議論が下手だ → これはこの人の個性
*西洋人は云々 → この人は云々 → これはこの人の個性
*サラリーマンは云々 → この人は云々 → これはこの人の個性
*子供は云々 → この子は云々 → この人の個性
*30を超えて海外留学なんかしているやつは云々(笑)etc



2、こどもとおとな

 まず、個性といわれて、「個性を伸ばす教育」などに象徴されるいわゆる教育における対象としての個性をここで一般的に扱うのではない。すなわち断らないかぎり、ここで言う「個性」とは一般的に大人も子供も含んだ扱いとする。

*「子供の個性 / おとなの個性」という考え → 「個性一般」という考え

 もちろん「個性を伸ばす教育」などというものが、今の日本で実際に求められている訳はない。産業界のニーズを考えれば、現実的には「個性を伸ばす教育」の「個性」というのは、国際競争力をつけうる「実用的なひらめき」を持った人間であろう。または、政府の人間でさえ、そんなビジョンすら持たずに言葉に躍らされている人が多いかも知れない。まぁ、それでもいい。さて、もし本当に「個性を伸ばす教育→個性を認める教育」を実行するとすると、学校だけでなく社会全体として「個性を認める環境」を整備しなくてはいけなくなる。そして、もしそうなるとしよう。そう考えていくと「個性を認める環境」が一般化してしまった社会では、人は学校教育が終わっておとなになってもどんどん成長していくという発想が発展していく可能性がある。日本において「個性」という発想がはじめて教育の範疇から解放される。どこかで何かが大きく変わるはずだ。



3、他人(ひと)と自分

 「他人(ひと)の個性」から「自分の個性」を見る発想。そしてそう至る発展性について考える。個性を外側に追及してくと、必ず内側のベクトル、すなわち自分にたいして同じ質問が帰ってくることになる。人を認めていくことは自分を認めていくことでもある。

 「兎の眼」の中に出て来る登場人物に感じる違和感は、すなわち自分の中にある違和感に等しいのかもしれない。「大阪的な」力強さ(笑)にたいする違和感(その無前提なナショナリズム的地域主義)と、その力強さから何かを得たいという葛藤は、俺個人的には10年以上に及んでいる。大阪の強烈な雑多さ田舎っぽさと、その無前提な自己肯定感が、18年間広島で育ち、その後名実ともに急激に現代化(都市化・東京化)された俺の心を揺さぶるのかもしれない。



4、環境をめぐる考察

 灰谷健次郎の「兎の眼」の世界は、まず関西弁が話され、処理所に暮らす子供たち、その家族たち、熱血教師、知的障害児というエレメントがインパクトとしてドーンと出て来る。ここにすなわち非常に分かりやすい形での「私とは違う世界」の表出がある。しかし同時に他の先生たち、教頭、校長、他の子供の親、役所の官吏など、彼らが「こちら側」(または「あちら側」(笑)かといえば、一体どうだろう。これはリアリティーによる問題で、一般化は出来ないが、俺にとっては、彼らも自分とはまったく違う世界の住人である。今回「個性」というものを考えるに際して、「兎の眼」の世界に関して、俺はあえて「こっち側」「あっち側」という視点を排除したい。それは個性の追及というものが最終的にはそういう方向性を模索していかざるを得ないのではないかと思うからだ。

 まず「こっち側」「あっち側」とはなにか? この考えかたは自分の属性やそれとの相性、位置、折り合い等を表現する。同時に他の属性とのそれも表現する。

☆自分は「自分の属する世界」の中で本当に認められているか?
☆自分と同じ世界を共有していないと安心できないのか? 
☆「自分と違う世界」が「当たり前」であるのかどうか。

自分のまわりの人が持つ、いろいろな環境そして、世界・世界観
日本において、例えば
*お金持ち・貧乏人
*サラリーマンの世界・それ以外の世界
*お寺さんの世界・それ以外の世界
*「正しい」と「正しくない」
*「普通(=まっとう)」であること
*「自由人」

海外において(極端な事例)
*ドイツ人は日本人と気が合う
*イギリス人は英語を話さない人が苦手
*台湾人は親日 / 中国人は反日
*北朝鮮は拉致する
*Are you with us or against us?(「お前はどっち側につくのか??」イラク戦争時のブッシュの発言)

 もちろん、ある程度の情報(先入観)というのは、とくに海外で違う文化の人と付きあううえで、異なる文化を知る取っ掛かりとなるうえでも、無用なトラブルを避ける意味でも現実的に必要なこと。(これを無前提に「ステレオタイプ化はよくない」として避けようとする日本人はいささかナイーブであると思う)。ただ、この際には、そういう情報はあくまで「参考にとどめ」それを用いて深く判断しないということにしておきたい。


 このように世界は「あっち側」「こっち側」に分割されているように見える。その上で、現実においてそういうふうに判断していかないというのはどういうことだろうか? なにを導きだしていくだろうか?



5、日本人が英語を話すときの諸問題

 強調しておきたいのは、いかにイギリスに住み、日常生活の英語に問題がない日本人であっても、英語を話すときにプレッシャーを感じないのはやはり少数派であるということだ。ネイティブじゃないのだから完璧には出来ないと思いつつ、どこかでまだ自信がないという人は多いと思う。

英語を話すときのプレッシャー。
*心理的なことーー何が圧迫しているのか?
*個性?? 個性の埋没
*「ちゃんとしゃべる」=「何者かでなければならないという」魔法。集団催眠。
*英語を話す相手(とくにネイティブ・スピーカー)が個性(個人)として認識されているか? 
*英語で話す自分に違和感がないか?
*英語で話している自分の個性が、自分によって尊重されているか?
*表出した言語(英語)と自分の中身に矛盾がないか?



6、「自己評価」の問題

 自己評価が高くなければ他人を認めることが出来ないのではないか。基本的に無前提に自分を受け入れられるという下地があれば、他人も受け入れやすいのではないか。自分に満足していて、自分の行動、考え等々に自己で責任を負うことが当たり前であると考え、またそれに自分自身がおりあっているならば、人を攻撃したりコントロールしたりする必要がない。つまり相手の個性を基本として無前提に受け入れるということになる。


倉田三平 |MAILHomePage

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