カンラン
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あれはなんでだろうねえ、と思うこと。
年配のおばさんからおばあさんといわれるあたりの方々で、もはや自分とその友人たちのことしか目に入らない、あとのことは一切世界から切り離してしまっている人のなんて多いこと。 道を譲ってもらっても平気で友らとわいわいがやがや、しかものんびり当たり前のように通っていく。席をとるためなら少々人を押しのけても構わない。ため息が出る。 私も相当なおばあちゃん子であったので、おばあちゃんなき今、道端でよそのおばあちゃんを見て切なくなったり懐かしく思ったり立ち止まることがある。それでも、どうだろうねえと思う。あれは老化なのか、赤ちゃんにもどっているのか、それとももっとどこか計り知れない遠いところにいってしまっているのか。そして、私のたどり着く先もそこなのか。ため息が出る。 たどり着いたら友に手紙を書こう。「ついに世界の中心が私に向かってきました」と。
それに対して、若い人や、特に子連れの人は男女問わずすごく丁寧で感じがいい(こっちが子を連れてようが連れてなかろうが)。ヤンママ風の人だってきらきら(雰囲気的にも視覚的にも)した笑顔を返してくれる。なんとなく、この国は大丈夫だなどと大きなフレームで見てみたり見てみなかったり。
まあ、親切心を働かせたときでも、反射的についつい親切っぽい行動をとってしまったときでも、相手の反応を期待するべきではないのだろうな。
今日は幼稚園が終わったら、ぴのきの友人のおうちにお邪魔してきます。 普段は子どもらが気ままに約束をしてくるので「今日は誰か来るかも知れない。なんか来るような気がする」と強迫観念の渦中で14時のお迎えタイムまでを掃除機やらはたきやら持って右往左往している。幼稚園の間は友だちの家に行くにもどうしてもお母さんと一緒に行ったり来たりするからね。
その点、今日はとてもフリーであります。掃除はしないぞ!と決心したが、それはそれで意外と手持ち無沙汰かも。
あ、あれから火傷はしてないです。
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