徒然なるままに…
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2002年11月22日(金) その瞳で何を見る?

今日、知り合いの外国人牧師とキリスト教について話してたんだけど
やっぱり私には受け入れられない考え。
拒否反応が出る。
他の宗教についても言える事だけど。

牧師さんの話によると、こんな感じ。
(英語で話していたので、内容は少し違うかも…)

神は完全なるもの。
人間は完全になるpotential(可能性)を持っているが
完全なるものになる為にはloveを選択しなければならない。
もし、control(自分はこうしたい、とかいう意識?)を選べば
神からseparateされ、それは罪深い事である。

キリスト教の目標?は、良い事をする事によって神様を
幸せにすることではない。
ただひたすら神の意思に従うのみ。
自分の心は捨てて、神の意思に沿う。
人間が完全になる、というのは、神と同じ心になる、ということ。

でも、神と人間は水と油のようなもの。
直接混ざることはできない。
そこで、イエス・キリストが必要になってくるわけです。
イエスは100%神であり、人でもある。
完全なる人、という事でしょうか。
キリスト教の考えでは、人間はイエスを通してのみ
神とcontactを取る事ができる。らしいです…

だからイエスを神として認めていないイスラム教徒は
神とcontactを取れないんだ、とキリスト教徒は言う訳です。
本当の神を知っているのはキリスト教だけだ、とも。


…頑固、ですねぇ〜。
なんでそこまで言い切れるのかなぁ。
私が単刀直入に「Do you know God?」と聞いてみたら
あっさりと「Yeah, I know in my hart.」という答えが…
当然のように言われました。
そうなんだよね、、、
信じてる人にとっては当たり前の事なんだよね。

神は目に見えません。
でも、だからといってその存在を否定する訳じゃない。
肯定もしないけどね。
この世には目に見えるものよりも見えないものの方が多いと思うし。

ちょっと話は変わるけど、アメリカはよくキリスト教国家だと
言われる。
でも、厳密に言うと違う。
seriousなキリスト教徒ばかりでないのは確か。
本当にseriousであれば、全ての人を愛するはず。キリストのように。
自分が傷つけられても、それでも愛する。
信じられる?
そんな事してたら絶対に殺されます。

だから、多くのキリスト教徒は「ここまでなら許せる(愛せる?)」
という限度を自分なりに設定?しているようです。
それを超えたらやり返したりするんでしょうね。
別に私はそれでいいと思う。
例えそれが神の意思に従ってなくても。
というか、全てを愛するって非現実的だと思う。
なんか、非人間的っていうか。
あ、そうか。
神様は全てを愛する。
それが非人間的っていうのは当たり前か…
神様は人間じゃないんだから。


キリスト教について色々話した後の、私の最終的な感想。
敬虔なキリスト教徒は一体何の為に生きているのか?
神の意思にしたがって生きるだけじゃ面白くない。
と私は思うんだけど。

これをキリスト教徒に言ったら絶対に言い返されるんだろうなぁ。
だいたいの内容は予想がつくけど。
でも、何を言われようと私はキリスト教徒になるつもりはないし
神を信じようともしないと思う。
もし、あなたが敬虔なキリスト教徒であれば
こんな私でもありのまま愛してくれるんでしょう?
それならば、それでいいじゃないですか。
私は私。あなたはあなた。
考え方は違って当たり前。

受け入れればいい。

ただそれだけの事。


それだけの事…なんだけどね。




※キリスト教について私が書いた事は確かなものではありません。
 聞いた話を覚えている範囲で書いたものですので。
 なので、ここに書いてある事を鵜呑みにしないよう
 くれぐれもご注意ください。


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