骨になるということ。
もう既に私の知っている物体ではなくなる。
外を覆っていた部分がなくなるから。
覆っていた部分が私の知っているもののすべてなのか。
骨は一体なんなんだろう。本質というべきなのだろうか。
ある小説家のエッセイで骨について書かれていて、ふと思った。
友人は骨になったが、そこで彼女の死を見た気がした。
物質的に。
気がしただけで実際は生きている気がしてならない。
覆っていた部分が私の心の中に沈殿し、残っているからだろうか。
けれど、同じ姿をした彼女には決して触れることは出来ず、話をする事もない。
夢の中ででも会えるけれど。触れられない。感覚がない。
触れられないということは死を意味するのだろうか。
ならば私たちの思い出は死の中にあるのか。
思い出は鮮やかで、いつ思いをはせても美しい。
もしそれが死ならば死は美しいものなのか。
よくわからないなあ、と思っていた。

それで、バインのビデオクリップを見てて、
「風待ち」のところで泣いた。
関連性などないんだけど、
「あの頃みてたもの あれもこれも遠すぎて」と
「皆知らぬ間に時を過ごしてるのかなあ」
というくだりで骨を思い出したからだ。
自分が震えながら骨を箸で挟むところを。
みんなの顔を。
私は五年後十年後、どうしているんだろう。
今見ているものは、皆と一緒に笑った時期は遠すぎると思ってしまうのだろうか。
今でも彼女は遠いのに、どんどん遠くなってしまうのかなあ。
そしてどんどん美化されて行く。死にゆくのだ。

なんか物悲しくなった。
2002年11月06日(水)

日々ノオト / kica

My追加