青春の思ひで。
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2004年10月02日(土) |
ばらいろ すみれいろ |
最初は私信。
>サトルくん 気付いているかいないか知らないけれど、君の好きな食べ物日記を結構更新したので(ちょっと前に)、よだれ垂らして見るように(笑)!
>朱瑠さん いや、うちは身内のカキコを除けば、数ヶ月に1度カキコがあるかないかいやない、という感じの掲示板なので。 でも、いろいろ思うところあって、暫定的に分けてみようかな、と。 この時期じゃなければ、東京おいでよ、と言いたいけど。 一週間までなら(笑)泊めてあげる、って言いたいけど。 何だかこの先当分、春まで余裕がなさそうなので、「泊めてあげる」とか大きなことは言えない。ごめん。あたしも結構追い詰められられな感じだし。 うーん。でも、来る? 「ばらいろ すみれいろ」買ったよ。 小Wも立ち読みだけど、読んで、泣きそになったよ。うぅぅ。
私信終了。
そんなわけで。 ひとが死ぬ、ということが未だになんなのかよくわかりませぬ。 「死」が「死」だとわかったのは、10を少し越えた頃かな。 でも、その「死」がなんなのかは未だわからない。 これからもっと年をとって、もっと「死」を経験することになれば、わかるのかな。 だったら、あまりわかりたいとも思わないけれど。
大叔母が、数日前に亡くなりました。 あたしや弟は、お通夜や葬儀に出る必要もないらしく、あたしに知らされたのは大叔母が亡くなった翌日。 葬儀が終わった日の夜に、母に電話して、「あの、正直、実感が湧かないのだけれど」と言ったら、「うん、しょうがないよ」と言われました。 そんなもんかな。そんなもんでいいのかな。 そう、実感が、全くない、のです。 確かに数年に1度しかあってないひとだったけど。 最後に会ったのはもう6年くらい前だけど。 でも、たぶん、子どもも孫もいないあのひとは、あたしのことを孫のように可愛がってくれたり、よくしてくれた、はずなのに。 涙は少しも出ない。 悲しくもない。 淋しくもない。 わからない。 あたしの、生活は全く変わらない。 父なら、少しは違う感情を持てたのだろうか。 悲しいとか。淋しいとか。 父にとっての叔母の死。 あたしが叔父や叔母の死にいつか遭遇すると思えば、それならば、その状況に相応しいだろう感情は働く。 親戚と言っても縁の強いひとではなかったから、こんなもんなのか。 そう思ったら泣けてきた。 自分のためにしか泣けない。 あたしは、ひとりだ。
ありふれた日常が。 こんなにもやわらかく優しい光を帯びているということ。 ありふれた日常こそが。 ありがたく、愛しい日々の積み重ねだということ。 この日常が、当たり前ではないということ。 小さな喜びとハプニングと不思議で満ち溢れているということ。 幸せだ、ということ。
あとり硅子さんの描く二次元は、そんな世界だった。 まさしく「ばらいろ すみれいろ」の美しい世界。日常。 最後までやわらかで美しくきらきらひかるような描線は、あとりさんが病魔と闘っていたことなど微塵も感じさせない。 あとりさんが愛したであろう日常、そしてこれからも望んでいたであろう日常の、光を確かに書き留めている。 不確かで、愛しい、日々の断片。
ひとが死ぬ、ということがわからない。 でも、あたしは誰かの「死」に対してとても利己的である、ということは、わかった。 ほんとうに何も感じない、血の繋がったひとの死。 悲しい、淋しい、と思える、顔も声も知らない誰かの死。
大叔母の死も、あとりさんの死も、悲しむ権利など、あたしにはないのかもしれない。 そして、大叔母の死は悲しみも何も感じることができなかった。 あとりさんの死を、悲しみや淋しさで受け止めてしまうのは、何故だろう。 好き、だった、けれど、けして熱心な読者ではなかったのに。
薄情、なのかな。 欠陥人間、なのかな。 この日常こそを、直視できていない。 あとりさんの描いたような日常が、あたしのまわりにも存在すること。 その日常のどこか遠くで大叔母がいなくなった。 この日常を具現化して愛していたあとりさんもいなくなった。
三笠のおばさん。 ごめんなさい。 可愛がってくれたのに、ごめんなさい。 何も思わないわけじゃない。やっぱり悲しい。でも、実感がないの。
あとり硅子さん。 ごめんなさい。 あなたの死、それのみを大仰に悲しんだりしてごめんなさい。 あなたが日常の中で、日常を紡ぎだしている、そのときはそれを大切に思っていなかったのに。
「冥福を祈る」という言葉は、この複雑な気持ちが死者に伝わるような気がしない。 一番、シンプルでストレートな言葉のはずなのに。
ただ、祈ります。 「日々を、ありがとう」
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